清盛の後継者とは? わかりやすく解説

清盛の後継者(後白河院政期)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 14:24 UTC 版)

平重盛」の記事における「清盛の後継者(後白河院政期)」の解説

平氏二条親政派から離脱して後白河上皇支持したことにより、仁安元年1166年10月憲仁親王立太子実現した憲仁親王乳母には重盛の室・経子藤原邦綱の女・綱子選ばれ重盛は乳父(めのと)になった12月には清盛後任として春宮大夫となる。仁安2年1167年2月には、権大納言となり帯剣許された。清盛5月17日太政大臣辞任するが、それに先立つ5月10日重盛に対して東山東海山陽南海道山賊海賊追討宣旨下された(『兵範記』)。これにより、重盛国家的軍事・警察正式に委任され、清盛の後継者としての地位名実ともに確立した。さらに重盛丹後越前知行国として、経済的に一門の中で優位にあった。 後継者となった重盛だが健康を害したらしく、「日来所労」「昨今不快」により12月東宮御書始欠席し大乗会の上卿も交替する仁安3年1168年2月清盛が病のため出家政情不安を危惧した後白河院憲仁親王即位させ(高倉天皇)、体制安定図った重盛体調不良続いたらしく、12月権大納言辞任する出家後の清盛福原退隠し、六波羅には重盛残って一門統率あたった嘉応元年1169年11月八十嶋祭では、重盛室の経子勅使役となって重盛六波羅邸から出立し後白河院滋子七条殿の桟敷行列見送っている。 清盛隠退は、伊勢平氏軍制にも影響与えたこれまで清盛に従っていた平貞能伊藤忠清伊勢平氏譜第郎党重盛仕えるようになり、彼らを通じてあるいは重盛直接地方武士結びつくことになる。特にこれまで源氏勢力強かった東国武士との関係を重要視し次男資盛の母方実家である藤原親盛をはじめ、足利俊綱宇都宮朝綱工藤祐経武田有義などを傘下収めていった。

※この「清盛の後継者(後白河院政期)」の解説は、「平重盛」の解説の一部です。
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