坂東平定
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8月29日、頼朝は安房国へ上陸した。上陸地は平北郡猟島(『吾妻鏡』)と安房郡洲崎(『源平盛衰記』)の2説がある。『吾妻鏡』の安房国内における頼朝の行動についての記事は前後に矛盾が少なく信用でき、頼朝の上陸地点があらかじめ決まっていた可能性が高い。猟島は平安時代後期にはすでに湊町として開発されており、また平北郡には頼朝を支える相模三浦氏の勢力が伸びていた。以上のことから上陸地点は猟島とみるのが妥当とされている。その後、安房国内で長狭常伴を討ったことが頼朝の安房国制圧を達成させることになり、長狭氏を上回る軍事力と経済力を持っている安西氏が頼朝に参向した時点で、頼朝の再起が事実上成立したと考えられる。さらに頼朝は房総に勢力を持つ上総広常と千葉常胤に加勢を要請し、9月13日に安房国を出た。その後、下総国府で千葉一族と合流し、さらに広常が大軍を率いて参上。南坂東最大の勢力である広常の参陣は後の戦局の帰趨に決定的な影響を与えることになる。上総・千葉両氏を勢力に加えた頼朝は10月2日太井・隅田の両河を渡る。武蔵国に入ると足立遠元、葛西清重を加え、清重の説得によって同じ秩父氏一族である畠山重忠、河越重頼、江戸重長らも頼朝に従うことになった。10月6日、かつて父・義朝と兄・義平の住んだ鎌倉へ入る。鎌倉は後の鎌倉幕府の本拠地として、発展を遂げることとなる。 東国の反乱の報告を受けた平家は平維盛率いる追討使を送った。頼朝はこれを迎え撃つべく10月16日に鎌倉を発し、途中で従わぬ豪族を制圧しながら黄瀬川に着陣する。10月20日、甲斐を発して鉢田の戦いに勝利した武田信義らと共に富士川の戦いに勝利する。その後千葉常胤や上総広常らの言を容れ常陸国の佐竹氏討伐に向かう。この最中、奥州の藤原秀衡を頼っていた異母弟・源義経が参じている。 帰途、相模国府で初めての勲功の賞を行い、捕えた大庭景親を処刑する。次いで佐竹秀義を討つべく常陸国へと進軍する。戦いは上総広常の活躍により秀義を逃亡させ終わった(金砂城の戦い)。鎌倉へ戻ると和田義盛を侍所の別当に補す。侍所は後の鎌倉幕府で軍事と警察を担うこととなる。 治承4年(1180年)末までに、四国伊予の河野氏、近江源氏、甲斐源氏、信濃源氏、美濃源氏、鎮西(九州)の豪族らが挙兵して全国各地は動乱状態となった。平家も福原から京都に都を戻して反撃に転じ、近江源氏や南都寺社勢力を制圧する。反撃に入った平氏であったが、養和元年(1181年)閏2月4日、最高権力者の平清盛が熱病で世を去った。全国的な反乱が続く中、平家は平重衡を総大将として尾張以東の東国征伐に向かう。重衡は源行家らを墨俣川の戦いにて打ち破り、美濃・尾張は平氏の勢力下に入った。頼朝は和田義盛を遠江に派遣するが、平氏はそれ以上は東に兵を進めず都に戻った。 一方、養和元年(1181年)6月の横田河原の戦いで源義仲が勝利し、義仲は勢力を伸ばしつつあった信濃や上野に加えて越後にも進出した。武田信義を中心とする甲斐源氏は甲斐、信濃、駿河、遠江を勢力下に置いていた。この時期、頼朝は南坂東を支配下に置いてはいたものの北坂東の豪族と争った記録が『吾妻鏡』に散見されている。また、常に奥州藤原氏や佐竹氏残党の侵攻に脅かされていた。養和元年(1181年)7月頃、頼朝は後白河法皇に平家と和睦の書状を送るが、清盛の後継者である平宗盛は清盛の遺言を理由にその和平提案を拒否した。一方、平家は都への食糧供給地である北陸に攻撃の矛先を向け、東海道と東山道の対平家最前線は甲斐源氏が担っていた。よって頼朝がこの時期に平家と直接対峙することはなかった。さらに翌年の寿永元年(1182年)からは養和の飢饉によりいずれの勢力も大規模な軍事行動を行うことができず膠着状態となった。そのような中、8月に妻・政子が嫡男の源頼家を出産している。なお、政子の妊娠中に頼朝は亀の前という妾を寵愛し、それを知った政子は亀の前の住む家を破却する後妻打ち(うわなりうち)を行っている。 寿永2年(1183年)2月、野木宮合戦で源義広、足利忠綱らを破り、これにより坂東で頼朝に敵対する勢力は無くなった。挙兵直後から頼朝は朝廷の従来の枠を外れた方法で、御家人の所領の保証、敵方の没収所領の給付を行い、「本領安堵」「新恩給付」という豪族たちの最大の願望を実現していき、坂東豪族の支持を集めていった。
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