坂東平定とは? わかりやすく解説

坂東平定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:52 UTC 版)

源頼朝」の記事における「坂東平定」の解説

8月29日頼朝安房国上陸した上陸地は平北郡猟島(『吾妻鏡』)と安房郡洲崎『源平盛衰記』)の2説がある。『吾妻鏡』安房国内における頼朝行動についての記事前後矛盾少なく信用でき、頼朝の上陸地点があらかじめ決まっていた可能性が高い。猟島は平安時代後期にはすでに湊町として開発されており、また平北郡には頼朝支え相模三浦氏勢力伸びていた。以上のことから上陸地点は猟島とみるのが妥当とされている。その後安房国内で長狭常伴討ったことが頼朝安房国制圧達成させることになり、長狭氏を上回る軍事力経済力持っている安西氏頼朝参向した時点で、頼朝再起事実上成立した考えられる。さらに頼朝房総勢力を持つ上総広常千葉常胤加勢要請し9月13日安房国出たその後下総国府千葉一族合流し、さらに広常が大軍率いて参上。南坂東最大勢力である広常の参陣は後の戦局帰趨決定的な影響与えることになる。上総千葉両氏勢力加えた頼朝10月2日太井隅田の両河を渡る。武蔵国に入ると足立遠元葛西清重加え清重説得によって同じ秩父氏一族である畠山重忠河越重頼江戸重長らも頼朝に従うことになった10月6日、かつて父・義朝と兄・義平の住んだ鎌倉へ入る。鎌倉は後の鎌倉幕府本拠地として発展遂げることとなる。 東国反乱報告受けた平家平維盛率い追討使送った頼朝はこれを迎え撃つべく10月16日鎌倉発し途中で従わぬ豪族制圧しながら黄瀬川着陣する。10月20日甲斐発して鉢田の戦い勝利した武田信義と共に富士川の戦い勝利するその後千葉常胤上総広常らの言を容れ常陸国佐竹氏討伐に向かう。この最中奥州藤原秀衡頼っていた異母弟源義経参じている。 帰途相模国府で初めての勲功の賞を行い、捕えた大庭景親処刑する次いで佐竹秀義を討つべく常陸国へと進軍する戦い上総広常活躍により秀義を逃亡させ終わった金砂城の戦い)。鎌倉へ戻ると和田義盛侍所別当補す侍所は後の鎌倉幕府軍事警察を担うこととなる。 治承4年1180年)末までに、四国伊予河野氏近江源氏甲斐源氏信濃源氏美濃源氏鎮西九州)の豪族らが挙兵して全国各地動乱態となった。平家福原から京都に都を戻して反撃転じ近江源氏南都寺社勢力制圧する反撃入った平氏であったが、養和元年1181年)閏2月4日最高権力者平清盛熱病世を去った全国的な反乱が続く中、平家平重衡総大将として尾張以東東国征伐に向かう。重衡源行家らを墨俣川の戦いにて打ち破り美濃尾張平氏勢力下に入った頼朝和田義盛遠江派遣するが、平氏それ以上は東に兵を進め都に戻った一方養和元年1181年6月横田河原の戦い源義仲勝利し義仲勢力伸ばしつつあった信濃上野加えて越後にも進出した武田信義中心とする甲斐源氏甲斐信濃駿河遠江勢力下に置いていた。この時期頼朝は南坂東支配下置いていたもの北坂東の豪族争った記録『吾妻鏡』散見されている。また、常に奥州藤原氏佐竹氏残党侵攻脅かされていた。養和元年1181年7月頃、頼朝後白河法皇平家和睦書状を送るが、清盛の後継者である平宗盛清盛の遺言理由にその和平提案拒否した一方平家は都への食糧供給地である北陸攻撃矛先を向け、東海道東山道の対平家最前線甲斐源氏担っていた。よって頼朝がこの時期平家直接対峙することはなかった。さらに翌年寿永元年1182年)からは養和の飢饉によりいずれの勢力大規模な軍事行動を行うことができず膠着状態となったそのような中、8月に妻・政子嫡男源頼家出産している。なお、政子妊娠中に頼朝亀の前という妾を寵愛し、それを知った政子亀の前の住む家を破却する後妻打ちうわなりうち)を行っている。 寿永2年1183年2月野木宮合戦源義広足利忠綱らを破り、これにより坂東頼朝敵対する勢力無くなった挙兵直後から頼朝朝廷従来外れた方法で、御家人所領保証敵方没収所領給付行い、「本領安堵」「新恩給付」という豪族たちの最大願望実現していき、坂東豪族支持集めていった。

※この「坂東平定」の解説は、「源頼朝」の解説の一部です。
「坂東平定」を含む「源頼朝」の記事については、「源頼朝」の概要を参照ください。

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