坂東家
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坂東律子→小浜律子 演 - 桜田淳子 かをるの異母姉(坂東家の長女)。先進的な女性を自負している。ピアノが弾け、文学に詳しい。たとえ気性の荒い漁師相手でも強気に接する。教養がある一方、皮肉や気まぐれに発言することも多く、男たちをあしらうつもりなのか、結局は振り回してしまう。頑固な面は久兵衛に似ているが素直になれずに反発し合っていて、千代の控えめさにも内心では反対している。銚子に愛着はない。かをるには「新しい女」になるようにと言った。 かをるら母子と初対面時には挨拶を無視していたのだが、なんの気まぐれか、急に古川家を訪ねて来て、かをるを連れ出す。 かをるが坂東家に引き取られて世話役を任されたときに顔を合わせたときには、また無視をしたり、振り回したりし、「お嬢様」ではなく「律子さん」と呼ぶように言いつける。 大学時代から水橋信吾と隠れて付き合っており、昼間に弾くピアノは夜中に逢うための合図であった。ぎんらから勧められた見合いもわざと破談させたほか、水橋との交際がバレると、久兵衛らを怒らせてしまい、寝ずの番がつく軟禁状態となる。なお、水橋との交際は本気だったようで、しばらくは気の抜けた生活をしていた。 水橋と交際中に小浜から惚れられていたが、さらに河原畑からも惚れられ、善吉にも意味深な言葉をかける。 見合いをするかをるには「移り気」と言い、かをるの煮え切らない態度に対し、小浜を利用して見合いを破談にしてしまう。 水橋のことを新聞で知ると、また心を乱してしまっていた。 千代が亡くなると久兵衛には東京へ行きたい旨を申し出る。昭和5年1月、かをるを訪ね、るいを後妻に押すように伝えたのち、東京へと旅立っていった。 河原畑との交際が噂され始め、昭和6年、東京から戻って来ると久兵衛に河原畑と結婚するつもりであることを告げる。しかし銚子に再び水橋が現れたことをかをるから知らされ、彼と逢瀬を重ねる。河原畑に別れを告げて水橋と逃避行を計画するが、水橋を屏風ヶ浦から突き落とした河原畑とともに崖から転落、一人生き残る(96-97回)。 程なくして軍人となって銚子に現れた小浜を無下にあしらうが、のちに東京で再会すると、彼に水橋に似た気性を感じて結婚し、坂東家を出て行く。小浜が満州へ飛ばされると後を追って自身も旅立つ。なお、これが久兵衛と顔を合わせた最後となった。 戦時中、現地では音楽教師として働く。 終戦後は満州から引き上げて来るも末期の肺結核にかかっており、久兵衛が亡くなった事実を聞くとショックを隠しきれずにいた。半年後、病状が悪化して亡くなる。 坂東英一郎 演 - 鷲生功 かをるの異母弟(坂東家の長男)。母親似の鷹揚な性格。かをるの良き理解者。かをると顔を合わせると、すぐに「姉さん」と呼んだ。 惣吉の弟・善吉とは友人関係になる。かをる想いには気が付いており、たびたび、かをるに惣吉からの様子などを伝える。 久兵衛からは勉学に励むように言われているが、本人は乗り気ではない。大学受験をするも不合格が続き、久兵衛から何度も叱られており、久兵衛のやり方には疑問を感じている。 結局は大学へは行けずに店に立つようになるも、才覚はイマイチであり、行動が裏目にばかり出てしまって久兵衛をイラつかせる。 昭和8年、かをると梅木との再婚を巡って久兵衛と大喧嘩する。この際、久兵衛から「出来損ない」と言われ、父子の溝が深まる。 翌9年、かをるが双子を出産した頃に見合い相手から断られ、自身の結婚がまとまらずに落胆する。 太平洋戦争に兵隊として招集されると大阪で負傷。回復すると現場へ復帰する。 終戦後、赤川と一緒に帰還するも片足付随の状態であった。また、律子の帰還と重なったこともあり、姉弟久々の再会となった。 久兵衛の死を受け入れ、律子の死を見届けると、「入兆」を受け継ぐ決意をして12代目当主となる。 坂東千代 演 - 岩本多代 久兵衛の本妻(律子と英一郎の母)。おっとりした人柄。妾である、るいを気遣う器量の大きさを持っている。長年、和歌山に住んでいたが、久兵衛の提案で銚子へ移り住むことになる。かをるに対しても優しく接するが、母親としての芯はしっかりしており、理想や新しさを追う律子をたしなめる。 肺を病んでおり、るいには自身が長くない旨を語り、律子らのことも託す。 律子と水橋の交際には大変ショックを受けたらしく、律子がこっそり水橋を追いかけようとするのを見て、普段の穏やかさからは変わって厳しく叱りつけた。 昭和2年、病状が悪化して喀血。翌日、町営病院へ入院する。後日、実は自分が亡き後に久兵衛が再婚するのではと不安を口にし、あえて、るいに夫婦仲を見せつけていることを明かす。手術が成功してからは比較的容態は安定し、正月には自宅で過ごせるまでに回復する。 かをるの見合いが流れたことを聞くと残念がっていたが、かをるが惣吉と夫婦になったことには納得した様子であった。 ときどき「自分が亡くなった後はるいと夫婦になるように」などと久兵衛に遺言していたが、昭和4年10月31日に容態が悪化して再び喀血。親族と二言三言交わし、そのまま亡くなる。 終戦間際にかをるが見た夢に、梅木・るい・律子・久兵衛と一緒に現れる。 坂東久兵衛 演 - 津川雅彦 「入兆」の11代目当主。かをる・律子・英一郎の父。「醤油屋は醤油屋と一緒になるのが1番」と、子どもらは自身の敷いたレールに乗っていれば幸せに過ごせると考えている。縁談をぶち壊して自由な振る舞いをする律子、大学へ行けず社員となってからも独断で株取引に乗り出して大損害を出す英一郎、恋愛結婚がしたいかをると、それぞれ自ら考え行動し自分の思い通りにならない子どもらが悩みのタネである。大の地震嫌い。また、物語終盤では、心労が重なって心臓を患っているような描写が増えていった。 律子の世話役をかをるがすることには大反対し、ハマを呼びつけて怒鳴った(律子もかをるも同等に扱いたいため)。 短気なところがあり頑固ですぐ怒鳴る(律子から嫌がられている点であるが、元々は似た気性である)。労働組合の結成には反対の立場だが、職人らの面倒見は良い(現場の意見を聞き入れて軍人になりたい小浜を夜間学校へ通わせたり、母親会いたさに単身銚子に来てしまったハマの息子をそのまま入兆に居ても良いと許可を出すどころか小学校への学費を出したりと教育にも非常に熱心である)。食事には差をつけずに職人と同じものを食べたりと、実は愛情深い好人物である。 律子と水橋の交際を知ると手切れ金を渡して水橋を追い出してしまい、律子にかをるとハマを番に付ける。以降、律子と水橋の騒動は「前科」と呼び、どこへ行くにも付き人を付けるようになる。 ようやくまとまりかけたかをるの縁談は律子に壊され、一時は寝込んでしまうほど落胆する。重ねてかをるの口から惣吉の名を聞いてしまったことで大激怒する。が、かをるの惣吉を想う気持ちには勝てず、坂東家から追い出す形で婚礼を認めた。 千代からは自身が亡くなったのちはるいと再婚するよう遺言されていたことに加え、初七日も済んでいないうちに律子が東京行きを願い出たことに頭を痛める。 昭和5年1月、律子の東京行きを許すも気落ちしていたところにハマから暇を貰いたいと言われて拒否する。 惣吉らが村長宅を襲撃して逮捕されるとかをるを心配して会いにやって来る。 律子が河原畑と交際している話を聞くと機嫌を損ね、昭和6年に東京から戻って来た際には結婚に反対である旨を言う。 かをるが流産した件では吉武家で酷い目に遭ってきたと勘ぐって相当立腹し、「吉武の人間には会わせない」といった調子であった。 律子が小浜との結婚を言い出すと「節操がなさすぎる」として猛反対するが、本心では律子のことを案じており、小浜を追って満州へ旅立つことを知ると涙を流して別れを惜しんでいた。 かをるが梅木と再婚を果たして無事に双子を出産すると梅木を社長代理に推し、そのまま隠居を宣言する。 英一郎が召集されることが決まると、珍しく気弱に「戦わなくていい」と言って送り出す。また、るいには「(英一郎に)厳しくし過ぎた」と子どもとの向き合い方を後悔するかのような内容を述べていた。英一郎が負傷したと聞くと真っ先に大阪へ向かう。 いよいよ戦争に突入すると召集されたはずの英一郎を家中探し回るなどの認知証の症状が出始め、かつての勢いはなくなっていた。 昭和20年の銚子空襲で「入兆」が空襲に遭うと、仕込み蔵が空襲されることに耐えられず、思わず防空壕から出てしまい、止めようとしたるいと爆撃に遭って亡くなった。
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坂東家
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「旧坂東家住宅見沼くらしっく館」の記事における「坂東家」の解説
坂東家初代の助右衛門尚重は紀伊国(現在の和歌山県)加田村の出身で、1675年(延宝3年)に江戸で暮らす傍ら見沼の一角に入江新田を開発したが、下流の村の反対にあい1718年(享保3年)、2代目四郎左衛門尚政の時に元の溜池に戻した。徳川吉宗は新田開発を推奨し、3代目助右衛門尚常は入江新田の再開発を幕府に願い出て、65町2反あまりを新田として開発。屋号を取り「加田屋新田」と命名した。坂東家住宅が建てられたのは10代目助次郎の時で、13代目新助、14代目貞市は大正から昭和にかけて北足立郡片柳村の村長を務めた。
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