古川氏
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ナビゲーションに移動 検索に移動古川氏(ふるかわし、こがわし)とは、日本の氏族である。戦国時代には、飛騨と陸奥に古川を称する在地勢力が、別々に存在した。
飛騨古川氏
飛騨国司家である姉小路氏の庶流にあたる。姉小路尹綱が飛騨国古川郷に居住し、古川氏を称したことにはじまった[1]。高野にある古川城を本拠地とした[2]。
その後、養子の昌家が継いだが、一族である小島家・向家との争いや周辺国人との争いを通して衰退した。享禄4年(1531年)に三木直頼によって滅ぼされた。この後、飛騨国内に勢力を張った三木氏が、古川の家名を名乗った。これは朝廷に認められたものであった[3]。
陸奥古川氏
明応8年(1499年)には、大崎氏の家臣として存在していた[4]。大崎教兼の六男を祖とするとされる[5]。その後、天文5年(1536年)には、他の勢力とともに大崎氏に対する大規模な反乱を起こしている[6]。
大崎義直はこの反乱を自力で抑えることができず、伊達稙宗に援軍を要請した。その結果、居城である古川城にこもった古川持慧ら一族郎党は死亡し、反乱は終わった。奥州仕置によって、大崎氏が改易されると、古川氏も居城を退去することとなった[5]。
読み方は「ふるかわ」でなく「こがわ」である[要出典]。
系譜
飛騨古川氏
姉小路高基 | |||||||||||||||||||||||
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家綱 | 尹綱1 | 之綱 ❲向家❳ |
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師信 ❲小島家❳ |
昌家2 | ||||||||||||||||||||||
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基綱3 | |||||||||||||||||||||||
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済継4 | |||||||||||||||||||||||
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済俊5 | 高綱 | ||||||||||||||||||||||
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秀綱6 | 済堯 | 宣政 | |||||||||||||||||||||
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良綱 | 時基 | ||||||||||||||||||||||
陸奥古川氏
- 諸説あるため、有力とされる一説を載せている。
大崎教兼 ┣━━━┳━━━━┳━━━━┳━━━━┳━━━━┓ 政兼 百々高詮 内﨑兼宣 斯波詮高 高清水定家 古川某 ︙ (不詳) ︙ 持忠 ┃ 持熈 ┏━━┫ 持恵 直稙 ┃ 持慧 ┣━━━┓ 忠隆 青塚吉春
脚注
参考文献
- 朝日新聞社編 『朝日日本歴史人物事典』 朝日新聞社、1994年11月。ISBN 4023400521。
- 大石泰史編 『全国国衆ガイド : 戦国の”地元の殿様”たち』 星海社〈星海社新書, 70〉、2015年8月。 ISBN 978-4-06-138571-9。
- 飛騨古川金森史編さん委員会編 『古川町の歴史と城下町』 古川町〈飛騨古川金森史〉、1991年3月。 NCID BN1086948X。
- 平凡社地方資料センター・大塚徳郎・竹内利美編『宮城県の地名』平凡社〈日本歴史地名大系, 4〉、1987年7月。 ISBN 4582490042。
関連項目
古川家
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古川かをる→吉武かをる→坂東かをる→梅木かをる 演 - 沢口靖子 銚子屈指の醤油醸造元「入兆」当主の妾の子として生まれた。幾多の困難を乗り越えながら、戦前・戦中・戦後を生き抜く本編のヒロイン。偶然に出会った吉武惣吉に心惹かれてゆく。 銚子高女時代はバレーに熱中していた。学校卒業後、「入兆」へ引き取られることになる(今でいう認知と同等の扱い)。 「入兆」では下働きから始まり、久兵衛の許しが出ると花嫁修業に励む。 初めて惣吉と2人きりで犬吠埼にて会う当日に千代が喀血してしまい、会うことが叶わず、1人悔し泣きする。 惣吉との再会が叶うも、互いのことを忘れるように言われてしまい、戸惑う。自身も身分が違うことは理解しているため、せめて「妹だと思ってほしい」と言って別れるも、同じ頃に見合い話が舞い込み、律子から焚き付けられる形で自分の気持ちが抑えられなくなってしまい、惣吉に会いに行く。 結納は律子によって破談となり、律子の嘘から久兵衛らを怒らせてしまうばかりか「入兆」での立場も悪くなってしまう。一時期は耐えかねてるいの元に帰るが、訪ねて来た久兵衛の姿を見たことで決心して「入兆」へと戻る。 惣吉への想いを断ち切れず、久兵衛から本家を追い出される形で結婚を認められる。 吉武家に嫁いでからは、文吉や乗組員が亡くなり、造船の価格高騰などの悲しみや苦難を乗り越えてゆく。 ようやく惣吉との子を身籠るも、漁へ出た惣吉が行方不明になる不幸に見舞われ、葬儀の最中に流産してしまい、入院。体調が回復して退院すると、久兵衛の計らいで坂東家に身柄を引き取られ、「入兆」の仕事を手伝って醤油と向き合うことで生きる喜びを見出す。番頭の小畑の退職後は本格的に「入兆」の経営に関わることになる。 惣吉の葬儀から1年ほどが経過すると周囲からは梅木との再婚を薦められ、当初は困惑する。 梅木との再婚後、妊娠していることが発覚。昭和9年11月、双子の男児を出産する。 葬儀を済ませて亡くなったものと思っていた惣吉が生きていたことが分かると梅木との関係に溝が出来る。その後、梅木との関係は改善するも戦況は厳しさを増してゆき、久兵衛・るい・律子、そして梅木までもを失う。「入兆」も空襲によって焼失してしまうが、懸命に復興に力を注ぐ。英一郎が12代目を引き継ぐと、彼を支えながら「入兆」を守っていく決意をする。 古川るい→坂東るい 演 - 加賀まりこ かをるの実母。元々は「入兆」の小間使い。久兵衛の妾としてかをるを生んで育てた。「妾の本分」はわきまえており、万事控えめ。かをるが幸せに嫁ぐことが何よりの夢である。 久兵衛の3人目の女・三隅照子とは「本分」を巡って気が合わない。気が強く、かをるを父同然に叱り飛ばす。 かをるの女学校卒業後は千代の希望で身の回りの世話を請け負うも、ハマのイヤミに我慢が限界に達して辞退する。 千代が入院してからは、再び千代から頼まれて身の回りの世話をすることになる。 かをるの縁談が流れてしまったことには心を痛めるが、「入兆」から帰って来たかをるには戻るように諭す。 かをるが惣吉との婚礼を終えたある日、訪ねて来た久兵衛に関係を終わらせようしていることを打ち明ける。千代が亡くなる前に立ち会っており、堪えきれずに病室を出てからは大泣きしていた。千代の遺言もあり、久兵衛らから後妻になるように言われるも頑なに拒否し続ける。 昭和6年、久兵衛の想いに応えるように坂東家の後妻になることを承諾する。 惣吉が行方不明になってから1年ほどが経つと、かをるに梅木との再婚を薦めるようになる。 戦争が激しさを増すと「入兆」の経営に頭を抱える。また、出征した英一郎が戻らないことに加え、日々久兵衛が衰えてゆく様子に心を痛めていた。 昭和20年の銚子空襲時、周りが止めるのも聞かずに仕込み蔵を守ろうと飛び出した久兵衛を庇い、銃撃に巻き込まれて負傷して亡くなる。 馬場ツエ 演 - 鷲尾真知子 古川家に住み込む小間使い。かをるやるいへの忠誠心が厚い。 おっちょこちょいで声が大きい。余計なひと言が多く、「すいません」が口癖。もらい泣きしやすい。 るいが千代の世話係を降りてからは代わって通いで受け持つことになり、ハマからイヤミを言われることになる。 千代が喀血したときの発見者になり、またハマからはイヤミを言われるも小畑からは気遣われる。 かをると惣吉の婚礼に出席し、るいの配慮でそのまま吉武家に住み込む。 かをるが流産したのちは吉武家から坂東家に住み込む。 空襲でるいを失うと相当な落ち込み様であった。 終戦後、民主主義によって婚姻が自由化され、無事に帰還した職人の赤川から求婚され、めでたく結婚する。
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