姉小路家の各家について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 04:56 UTC 版)
閑院流(藤原公季の子孫)三条実房の子、姉小路公宣が京の姉小路に居を構えたことに由来する。6代目の姉小路実広が南朝に従って没落する。 同じく閑院流阿野実顕の子、阿野公景が慶長18年(1613年)に新たな姉小路家を起こす(阿野家も1.の姉小路家共々南朝方について一度は没落したが、後に勢力を回復させた家系である)。当初は1.とは無関係に存在していたが、宝暦9年(1759年)に時の桃園天皇の命により、1.の祭祀を引き継ぐことになった。姉小路公景の次男風早実種は風早家を創立した。幕末の姉小路公知とその叔父で澤家を継いだ澤宣嘉は著名である。公知は若くして暗殺されたが、澤宣嘉と宣嘉の弟・石山基文の系統(澤家、石山家)が姉小路公景の血統を伝えている。家格は羽林家。新家。内々。家禄200石。維新後、公義が伯爵に叙せられた。 小一条流藤原師尹の子である藤原済時が京の姉小路に居を構えたことから、子孫が姉小路を称することとなった。建武の新政で飛騨国司に任じられた参議・姉小路高基が下向したことから、以後代々飛騨国司家とされた。一族は小島家(宗家)・古川家・向家(向小島城を拠点としたため、向小島家とも言う)の3家に分裂し、それぞれが国司を称したが、小島家のみが正式な国司で、古川家・向家は国司を僭称していたものと考えられている。一族の内紛によって発生した「飛騨の乱」において、室町幕府の派遣した守護京極氏に敗れた。その後、古川家の古川基綱・済継が小島家を圧倒して宗家の地位を奪うが、古川済俊が没すると同家は混乱状態となり、やがて断絶する。これを利用した家臣筋の三木良頼が古川姉小路家の名跡継承を朝廷に認めさせた。いわば僭称である。これが戦国大名・姉小路氏である。なお、本来の宗家である小島家は、小島時光の代に三木(姉小路)頼綱の息子を養子に迎えて、古川家に臣従した。時光は後に頼綱とともに、羽柴秀吉の命を受けた金森長近の軍と戦って攻め滅ぼされたため、小一条流の姉小路家は名実ともに滅亡した。 勧修寺流藤原宣孝(紫式部の夫)から数えて7代目にあたる鎌倉時代の廷臣・藤原宗隆の子、姉小路宗房から3代、宗房、顕朝、忠方がいたが、早いうちに没落している。
※この「姉小路家の各家について」の解説は、「姉小路家」の解説の一部です。
「姉小路家の各家について」を含む「姉小路家」の記事については、「姉小路家」の概要を参照ください。
- 姉小路家の各家についてのページへのリンク