姉小路家嫡流の継承
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/05 09:27 UTC 版)
小島持言の子として誕生した。室町幕府の第7代将軍・足利義勝の偏諱を受け、勝言と名乗る。 勝言は姉小路家嫡流・小島家の生まれであったが、当時姉小路家は三家に分裂し、小島家の他に、古川家の古川基綱、向家(向小島家)の向之綱と、事実上3人の当主が存在し、それぞれが飛騨国司を名乗っていた。 長禄3年(1460年)から在京し、翌長禄4年(1461年)11月13日に御教書を携えて帰国しているが、前年の長録3年に小島家が管理する高山盆地にあった山科家の領地を巡って、父・持言との間で父子争論があり、その結果、持言が死亡したため、所領安堵の御教書を手に入れたものと推測される。この父子争論に乗じて、飛騨国守護代の多賀出雲入道(多賀清直)が飛騨大野郡の山科家の領地を押領したという。 寛正6年(1465年)11月にも上洛し、足利義尚の誕生を祝っている。
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