小島時光
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小島 時光(こじま ときみつ、? - 天正13年(1585年))、別名・姉小路 時光(あねがこうじ ときみつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・公家。小島時秀の孫、小島時親の子。弟に小島時忠がいる[1]。飛騨国小島城城主[2]。官位は従五位下・侍従。姉小路氏一族[3]。
- ^ 赤坂恒明「永禄六年の『補略』について : 戦国期の所謂「公家大名(在国公家領主)」に関する記載を中心に」『埼玉学園大学紀要. 人間学部篇』第11巻、埼玉学園大学、2011年12月、326(43)-311(58)、CRID 1050282812975072256、ISSN 13470515。
- ^ 飛騨市文化振興課発掘調査現地説明会資料
- ^ 『羽継原合戦記』に飛騨国司の幕紋として「日光月光」と記されている。
- ^ 古川氏は三木直頼により滅ぼされ、向氏は家臣牛丸氏により飛騨国を追われた。
- ^ 「戦国秘話“鬼面の画師”(飛騨杉崎城主小島時光愛娘妙姫)大倉桃郎作」
- ^ 頼綱と時光は親族と名家の立場と性格や相性がよく好関係であった
- ^ 織田家同盟も姉小路宗家親族衆として、加治田城白華山清水寺の地にいる頼綱の姉小路頼綱正室親族である斎藤利治により招かれていた宮内卿である平井信正とも公家として通じている
- ^ 『飛騨と江馬氏:高原史蹟(江馬史蹟保存会)』 1935年 柴田忠太郎
- ^ 『高原史蹟 飛驒と江馬氏 小島時光江馬本城を取る』82-95頁
- ^ 姉小路頼綱と姉小路頼綱正室は降伏勧告を拒否し、金森軍と戦っていたが籠城中に朝廷の命が間に合い、隠居した高堂城開城後に護送され後、京都にて幽閉され息子三木近綱と再起を促す事となる。
- ^ 時光の家臣・一族である小島重清は1582年に越前国へ移動しており、その一族は滅亡を免れている。
- ^ 金森長近が格式ある姉小路宗家小島家と戦わずして和議を準備中に飛騨国を追放された案内人・先鋒隊である浪人衆が怨みも有、独断で小島城に攻め上がり、小島氏は和議を行う事として戦う体制ではない状態で不意討ちにて落城し、姉小路小島氏一族は行方不明。その為、浪人衆は飛騨国が金森家大名となった後も恩赦や登用、抜擢はされず、牛丸氏以外は領地復帰は叶わず、謀反を起こし滅ぼされることとなる。
- ^ 「寿楽寺経文後書」
- ^ 『飛騨と江馬氏:高原史蹟』82-85頁
- ^ 応永飛騨の乱600年祭 記念展示会
- ^ 旧古川町重要文化財
- ^ 飛騨市美術館にて保存
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