三木直頼とは? わかりやすく解説

三木直頼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/24 23:19 UTC 版)

 
三木 直頼
時代 戦国時代
生誕 明応6年(1497年)?
死没 天文23年6月14日1554年7月13日
墓所 禅昌寺
官位 大和守、従五位下、右兵衛督[1]
氏族 三木氏
父母 父:三木重頼
兄弟 良充、直頼、佐々木友則、高次[1]
長橋局[1]
良頼、真證、頼一、宗行、直弘、久頼[1]
テンプレートを表示

三木 直頼(みつき なおより、明応6年(1497年)? - 天文23年6月14日1554年7月13日))は戦国時代の武将。飛騨三木氏の当主。姉小路良頼の父。大和守

飛驒国守護代三木氏の出自は多賀氏佐々木氏の一族、つまり飛驒国守護京極氏とは血縁関係)とも藤原氏ともいわれはっきりしない。直頼の父は『飛州志』では三木重頼と伝わるが、系図では三木綱良とされる一方、二人は同一人物ともされるなど[1]直頼以前の三木氏については不明な点が多い。

もともとは飛騨の一国人にすぎなかったが、室町時代に守護の京極氏や国司の姉小路家が戦乱や内紛などにより衰退したことに乗じて、隣国美濃土岐氏と手を結んで実力をつけていった。やがて飛騨の南半分を征服し、三木氏が戦国大名として躍進する基礎を築いた。後には土岐頼芸に援軍を要請されたり、隣国信濃木曾氏と争ったりし、その勢威は近隣諸国にも及んだ。晩年は飛騨北部を支配する国人の江馬時経と飛騨の覇権を巡り争ったが、時経の死後は江馬氏と和解している。桜洞城の築城者であるとされる。菩提寺は禅昌寺

脚注

  1. ^ a b c d e 『大日本地誌大系 第十冊』三木氏系譜(大日本地誌大系刊行会 1916年

関連項目





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「三木直頼」の関連用語

三木直頼のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



三木直頼のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの三木直頼 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS