飛騨三木氏との関係
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景前が再興した大圓寺に招いた明叔慶浚は飛騨の三木直頼の義兄であり、明叔慶浚を通じて三木氏とも誼を通じた。三木直頼が菩提寺の禅昌寺に宛てた手紙(禅昌寺文書)に記されている岩村遠山氏との関連内容は以下のとおりである。 加尊書改年之御慶珍重々々、於御祝言者更不可有休期候。抑従大圓寺様御札両種拝領仕候。云々 正月十日 「一、岩村殿より昨日為音信大魚十給候。御懇意之至候。然共悉くさり候間不用立候。無曲と申事候。」 「一、濃州之儀如何御座候哉御無心元候。向雪中候條他国衆可為御太儀候。承度候。云々」 「一、瀬戸物ふちかけ自岩村到来候を、此の方皆々に出し候處、一段重寶之由申候。云々 十月六日」 弘治2年(1556年)7月に景前が死去し、遠山景任が後を継ぐと織田氏から妻を迎え(おつやの方)関係が深まり始めた。大圓寺住持の希菴玄密は禅昌寺へ移り、永禄元年(1558年)禅昌寺にて景前の三回忌の法要を行った。その時の香語は以下の通り「岩村城主遠山景前三年忌香語 這香感仏御風来 熱向一炉酬旧知 散却辟邪濫却敵 煙霏興衝溢坤維 三年景前忌抹香 宰木三霜悠忽移 遠山依田碧参差 国公不是干才栗 開露吹香七月茶 同 三年一笛風 法界即円融 塔影墓誰外 芙蓉初日紅 同塔婆」。
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