女学校卒業後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/20 05:38 UTC 版)
1929年(昭和4年)、19歳で女学校補習科師範科を卒業した。その後も依然として、向学心が尽きることがなかった。卒業後は実家で家事を手伝ったが、数学のことが頭を離れず、暇があれば数学の教科書を取り出して、机に向かっていた。そののち姉の紹介で小樽市立第2中学校の数学教師に学ぶことができ、中学校の教科書を全部習得している。 小学校の教員に勤める手段もあったが、芳枝は進学してより高度な数学を学ぶこと、数学研究者への道を望んだ。地元の北海道帝国大学(後の北海道大学、以下、北大と略)にはまだ理学部がなく、あったとしても学歴不足で受験資格はなかった。女性が学問の道へ進むためには依然、壁の立ちはだかる時代であった。 芳枝は数学研究者の夢を人に話したことはなかったが、芳枝の姉は、芳枝の意志を察して、大学の聴講生の道を教えた。芳枝はついに自分の夢を両親に打ちあけた。父は驚いたが、芳枝の硬い意志を知り、愛娘を東京へ送り出すことに同意した。 1931年(昭和6年)、芳枝は東京物理学校に聴講生として入学し、高度な数学を、朝早くから夜遅くまでかけて学んだ。当時はまだ女性が学問をすることについて理解を得られにくい時代であり、芳枝は男子学生の中で紅一点の存在であったため、文化の最先端を行く東京ですら好奇の目が向けられたり、冷ややかに扱われたりした。聴講生のために、質問すら許可されないという、女性にとっては厳しい環境であった。芳枝はそれでも、男子に負けずに、好きな数学の道を突き進む決意であった。 芳枝が熱心に講義を聞く姿は、東京物理学校で講師を務めていた森本清吾の目にとまった。芳枝は森本との出逢いにより、森本の自宅で週に1回、個人授業を受ける機会を得た。森本の妻である森本治枝も、女学校などで数学を教えており、芳枝がこの後に数学の分野で活躍したことは、森本夫妻の支援が背景にあった。
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