女学校教員時代とは? わかりやすく解説

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女学校教員時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 18:16 UTC 版)

新美南吉」の記事における「女学校教員時代」の解説

1938年昭和13年25歳)、4月4日入学式から教員生活スタート1年生学級担任となり、1年生から4年生の英語、1年2年生国語農業担当する図書係農芸園芸部長も務めた給料70円。通勤1時間半もかかるため、翌年1939年安城町新田大見四郎家に下宿する4月23日外語学校時代知り合った江口榛一哈爾濱日日新聞文芸部入り、南吉に原稿依頼する手紙が来る。『最後胡弓弾き』『久助君の話』や詩が翌年まで掲載される体調もよく、3年生関西旅行引率富士登山同僚熱海大島視察するなど充実したであった1940年6月9日中山ちゑ青森県知人宅で体調崩し急死。南吉は葬儀男泣き泣きその後1か月腑抜けのような状態だった。 一方この年作品次々雑誌載る年末学習社という出版社から伝記物の依頼を受ける学習社の編集者豊島与志雄宅を訪れて新人作家紹介依頼した際、その場居合わせた南吉の友人河出書房勤務していた澄川稔が南吉を推薦豊島も『赤い鳥投稿の南吉の作品知っていたため同調。南吉に原稿依頼となった1941年1月4日から良寛伝記書き始め3月9日脱稿10月1日良寛物語 手毬鉢の子』が出版される。2出版され1300円の印税受け取る。多は「正八はえらいもんになりやがった、年に千三百円ももうけやがった。」としみじみ言ったという。11月28日女学校生徒の兄で早稲田大学の佐知の依頼早稲田大学新聞に『童話に於ける物語性喪失』を寄稿する。しかし伝記執筆後から体調悪化4月腎臓病10日あまりも学校欠勤その後体調不良続き11月中旬には岩滑実家戻っていたが、12月血尿が出る。南吉は死を覚悟した1942年1月病院診察を受け腎臓炎診断されるが、日記に死を覚悟した苦悩をつづる。巽から童話集出版の話が舞い込み外語時代書いた童話13篇を浄書して送るが巽は幼年童話望んでいなかったため採用されなかった。3月末から5月末までの2か月の間に『ごんごろ鐘』『おぢいさんのランプ』『花の木盗人たち』『牛をつないだ椿の木』など童話次々書き上げる4月与田凖一からも童話集依頼学習社に依頼され伝記都築彌厚伝』執筆のため、8月長野温泉に行くが宿をとれず、群馬万座温泉過ごし1週間帰宅。『都築彌厚伝』は頓挫した10月10日はじめての童話集おぢいさんのランプ刊行。南吉は本の印税高女職員全員鶏飯ふるまい職員室ラジオ寄付した体調悪化し12月からは喉が痛み、声も出にくくなる11月2日北原白秋死去。巽と与田から追悼詩集への執筆依頼を受け2篇の詩を書いて送る。それをきっかけ創作再開、『耳』『小さ太郎悲しみ』などを書く。1943年年明けからは女学校長期欠勤2月10日安城女学校退職

※この「女学校教員時代」の解説は、「新美南吉」の解説の一部です。
「女学校教員時代」を含む「新美南吉」の記事については、「新美南吉」の概要を参照ください。

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