女学校時代〜苦悩から思想へ
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「渋谷黎子」の記事における「女学校時代〜苦悩から思想へ」の解説
女学校へ入学後、黎子は社会科学の研究に精進した。この在学中より黎子は、身を粉にして働く小作人たちと父とを比較せずにはおられず、自分たちの豊かな生活が小作人たちの過酷な労働の上に成り立っていることを感じていた。先述のように放蕩と贅沢三昧を尽くす父、それに耐え忍ぶ母という家庭の姿に義憤を抱いてもいた。 1924年(大正13年)頃より、そうした苦悩の解決の道を、社会主義思想に求めた。中でも特に、資本家対労働者、地主対小作人という構図を説くマルクス主義は、当時の現実を理解するのに役に立った。後に夫となる渋谷定輔宛ての手紙においても、黎子は「女学校3年からマルクス主義一点張り」と語っている。 先述の本間清とは女学校でも同級生となり、互いの家を行き来する仲となり、やがて親友同士となって思想的にも共鳴した。本間の姉の田川とみ子が、当時の福島県で最も活発な社会主義運動指導者とされる柿本四郎の妻であることから、黎子はこの本間の影響により社会主義に触れたとも見られている。また、友人を通して政治新聞である『無産者新聞』を読み、それまでの生活では知る由もない日本国内外の情勢、福島県内の労働者、農民闘争などの知識を得た。他に『赤旗』などを密かに購読し、それを友人たちに配布もした。時には自室で本間と共に、密かに政治新聞を読み、自分たちの生き方について議論し合った。1925年(大正14年)には社会主義思想を多く掲げる雑誌『改造』を初めて購入した。後に黎子の弟は、彼女の兄や姉が同誌を読んでいた影響で、黎子も読み始めていたと証言している。両親の目を盗んで、無産政党である労働農民党の演説会を聞きに行ったり、渋谷定輔の詩集『野良に叫ぶ』に刺激を受け、別学校の社会科学研究会と接触することもあった。謄写版サークル雑誌『雑音』を主宰して時事問題などを扱い、その記事に警察官吏を刺激する内容があったために警察署による取り調べを受けたこともあり、この誌は特別高等警察(特高)により禁止させられて終わった。プロレタリア文学の代表的な雑誌である『戦旗』を友人から譲り受け、特高に呼び出されて始末書を書かされたこともあった。 黎子は社会主義思想に触れながら、家族や親戚たちの富裕な生活に疑問を抱き、自己の存在や社会構造の変革を模索し始めた。やがて、自分は家を出て農民解放に立ち上がる道しかないと考え始めた。折しも第一次世界大戦後の不況、および大手製糸会社が養蚕業に進出してきたことで、家業が傾き始め、父がその苦しみから逃れるために遊興にのめり込んでいたため、黎子の家に対する反発心はさらに強くなった。もっとも家業が傾いたといっても、未だに年に約350俵もの小作米が上がっていたといい、当時はまだかなりの富裕だったと見られている。
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