女学校時代〜苦悩から思想へとは? わかりやすく解説

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女学校時代〜苦悩から思想へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 21:36 UTC 版)

渋谷黎子」の記事における「女学校時代〜苦悩から思想へ」の解説

女学校入学後、黎子は社会科学研究精進した。この在学中より黎子は、身を粉にして働く小作人たちと父とを比較せずはおられず、自分たちの豊かな生活が小作人たちの過酷な労働の上成り立っていることを感じていた。先述のように放蕩贅沢三昧尽くす父、それに耐え忍ぶ母という家庭の姿に義憤抱いてもいた。 1924年大正13年)頃より、そうした苦悩解決の道を、社会主義思想求めた中でも特に、資本家労働者地主小作人という構図説くマルクス主義は、当時現実理解するのに役に立った。後に夫となる渋谷定輔宛ての手紙においても、黎子は「女学校3年からマルクス主義一点張り」と語っている。 先述本間清とは女学校でも同級生となり、互いの家を行き来する仲となり、やがて親友同士となって思想的にも共鳴した本間の姉の田川とみ子が、当時福島県で最も活発な社会主義運動指導者とされる柿本四郎の妻であることから、黎子はこの本間影響により社会主義触れたとも見られている。また、友人通して政治新聞である『無産者新聞』を読みそれまでの生活では知る由もない日本国内外の情勢福島県内労働者農民闘争などの知識得た。他に『赤旗』などを密かに購読し、それを友人たちに配布もした。時には自室本間と共に密かに政治新聞読み自分たちの生き方について議論し合った1925年大正14年)には社会主義思想多く掲げ雑誌改造』を初め購入した。後に黎子の弟は、彼女の兄や姉が同誌を読んでいた影響で、黎子も読み始めていたと証言している。両親目を盗んで無産政党である労働農民党演説会聞き行ったり、渋谷定輔詩集野良に叫ぶ』に刺激を受け、別学校の社会科学研究会接触することもあった。謄写版サークル雑誌雑音』を主宰して時事問題などを扱い、その記事警察官吏を刺激する内容があったために警察署による取り調べ受けたこともあり、この誌は特別高等警察特高)により禁止させられ終わったプロレタリア文学代表的な雑誌である『戦旗』を友人から譲り受け特高呼び出され始末書を書かされたこともあった。 黎子は社会主義思想触れながら、家族親戚たち富裕な生活に疑問抱き自己の存在社会構造変革模索し始めた。やがて、自分は家を出て農民解放に立ち上がるしかない考え始めた折しも第一次世界大戦後不況、および大手製糸会社養蚕業進出してきたことで、家業傾き始め、父がその苦しみから逃れるために遊興のめり込んでいたため、黎子の家に対す反発心はさらに強くなった。もっとも家業が傾いたといっても、未だに年に約350俵もの小作米上がっていたといい、当時はまだかなりの富裕だったと見られている。

※この「女学校時代〜苦悩から思想へ」の解説は、「渋谷黎子」の解説の一部です。
「女学校時代〜苦悩から思想へ」を含む「渋谷黎子」の記事については、「渋谷黎子」の概要を参照ください。

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