女学校校長と晩年(1923-1966)
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「可児徳」の記事における「女学校校長と晩年(1923-1966)」の解説
1923年(大正12年)4月、私立国華高等女学校の校長に就任し、東京高師の講師を辞した。その一方で、母校の日本体育会体操練習所副校長や日本体育会の会長事務取扱の職を兼任した。中京高女での勤務は1940年(昭和15年)まで続けたようである。1943年(昭和18年)11月22日の日本体育会創設50周年記念式では閑院宮載仁親王に可児1人で拝謁し、長年の体育界への貢献を讃えられた。 国華高等女学校は戦後、荒川高等学校、国華女子学院高等学校と改称し、1964年(昭和39年)の国華高等学校に改称後男女共学となった。可児は戦後も校長を続け、学校法人理事長を兼務していた。可児の晩年、1965年(昭和40年)に国華高校は練馬区内で移転予定であったが、新校舎が未完成であるにもかかわらず旧校舎では収容しきれない数の生徒を募集しているとして東京都議会で問題になった。 1950年(昭和25年)5月3日、長年の体育への貢献が認められ藍綬褒章を受章、記念に乃木希典の漢詩を毛筆で書いた。同年11月7日、藍綬褒章受章の功績を讃えて可児の胸像が制作され、校長を務めた荒川高校で除幕式が行われた。この頃には体育界の長老として、可児の名を知らない人は少なかったが、名前を「かに いさお」と正確に読める人はあまりいなかった。 1961年(昭和36年)には東京オリンピックを前に雑誌『新体育』で所感を述べている。その中で可児は日本のオリンピック初参加の頃の思い出を語るとともに、東京オリンピックの準備が遅れていることを憂慮し、宿泊施設や選手村、交通問題などは日本や日本人の国際的地位を左右する問題であると述べ、「五十年前には、誰一人予想だに出来なかったオリンピック大会の東京における成功を祈る。」という言葉で結んでいる。そして1964年(昭和39年)10月10日、東京オリンピックの開会式に日本体育協会創立時の委員で唯一存命中であった可児が特別招待された。この時可児は「嘉納先生がいたらなあ…」と読売新聞の取材中につぶやき、あの世に行ったら嘉納に報告すると語った。東京オリンピックを見届け、病気療養の中、1966年(昭和41年)9月8日午前11時25分に、足立区北鹿浜町の老人センターで脳内出血のため死去した。9月12日に学校法人国華学園で学校葬が営まれた。自宅は練馬区下石神井にあった。
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