女学校を卒業後
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1926年(大正15年)3月に女学校を卒業後は、家事手伝いが日常となった。家事手伝いのほか、母に裁縫の手解きも受けていた。一見すると平穏な日々であったが、黎子の心中では、自身の抱いている思想と、安穏とした毎日とが、矛盾となって広がり続けていた。 財産家に嫁いだ長姉は、家業が完全に破綻する前に黎子を富裕な家に嫁がせることが、黎子と家の幸福のためと信じ、縁談を次々に持ち込んだ。母や姉が黎子の思想を知り、黎子を結婚させることでそうした思想から遠ざけようとしたとも見られている。黎子はどの縁談も断り続け、母を親不孝者と嘆かせた。当時の富裕層の女性が、条件の良い相手と見合いして結婚するのが一般的な時代にあって、黎子は敢えて見合いを拒絶し、家事手伝いの生活に甘んじた。特に、財産を第一条件とする結婚話を最も嫌っていた。 友人のいた学生時代と違い、社会科学を語る仲間を欠き、思想のままに行動することもできなくなったことから、黎子は心労に陥った。日記には白髪がひどく増えたことが記されており、妹から「姉は気が狂ったのではないか」と心配されるほどだった。後の上京後の日記には、過去を回想して「虚無に襲われて自殺を計った〔ママ〕」「私は東北におれば自殺する外はなかったのだ」とある。 当時の愛読書に、ドイツ社会民主党(SPD)の創設者の1人であるアウグスト・ベーベルの『婦人論』や、ソビエト連邦の革命家であるナデジダ・クルプスカヤが夫のウラジーミル・レーニンについて著した『レーニンの思い出』がある。黎子はそれらの感想について、前者を「ベーベル夫妻は何と美しかったことか」、後者を「大いに感ずるところあり」と述べている。 1926年5月、黎子は無産者たちの苦しみを強く訴える詩『悲しき揺籃 蚕期農村の子供のこと』を書いた(後述)。この頃には、労農党系列下の無産婦人団体である関東婦人同盟に加入し、雑誌『婦人運動』への投稿も行なっていた。無産者の中でも特に、無産婦人運動に強い関心を寄せていた。
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