人物歴
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東京府東京市日本橋区室町(現:東京都中央区日本橋室町)出身の父と東京府東京市下谷区金杉(現:東京都台東区下谷)出身の母の子として疎開先の東京都世田谷区松原町で生まれた。 戦争による財産喪失の影響が続き成人までの生活費と学費意外に親からの援助は無かった。最終校は東京都世田谷区三軒茶屋にあった日本大学農獣医学部(この学部は1995年12月に日本大学生物資源科学部等に改組されて今はない)。 東京育ちの後、1986年(昭和61年)東京都港区六本木三丁目から山梨県北巨摩郡高根町字念場原(現:山梨県北杜市高根町清里)に移住した。家は代々浄土真宗大谷派で、信仰は仏教。菩提寺は東京都台東区寿にある善照寺。
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人物歴
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敬虔なカトリック信者の家に誕生。1945年(昭和20年)8月、自身が24歳のとき、長崎市で被爆(爆心地からの距離は1.1キロメートル)。肉親を13人失い、自身も重傷を負い、左耳を失聴、顔の右半分には大火傷によるケロイドが残った。被爆後に初めて自分の顔を見たときは「化け物と思った」といい、思わず鏡を地面に叩きつけたという。後に遺した手記には「若さを誇っていたあの顔が化け物のようでした」「人前に立てないような人生を背負わされました」と記されている。化粧でもケロイドは隠せず、結婚は諦めた。好奇の視線を浴び、何度も自殺を考えたが、自殺は信仰上で大罪に当たることから、カトリック信者として信仰にすがって生き続けた。 1961年(昭和36年)、写真家の東松照明が知人の紹介により片岡の撮影を開始。以後、約50年にわたる撮影により、原爆被害の実態は世界中に訴えられた。写真は海外にも紹介され、多くの人に原爆の悲惨さを伝えた。 父は原爆投下前にすでに死去、兄や姉たちも独立していたため、母と2人で暮していたが、1962年(昭和37年)に母と死別した後は、1人で孤独に暮した。同じく長崎原爆被爆者でカトリック教徒でもある医学博士・永井隆は「原爆は神の摂理」と説いており、片岡もこの考えに触れるが、「神がなぜこんなに酷いことを?」と信仰に迷いを抱き続けていた。 1981年(昭和56年)、ローマ教皇のヨハネ・パウロ2世が長崎を来訪。教皇の「戦争は人間の仕業」「過去を振り返ることは将来に対する責任を負うこと」との言葉に感銘を受けたことが転機となり、「自分のような人間をつくってはいけない」「自分を平和の道具として使ってほしい」と、60歳にして被爆体験の語り部を始めた。長崎平和推進協会の写真資料調査部会長を務める深堀好敏は後に「片岡さんはローマ法王に会って、別人のようになった」「ツヨさんは『自分が救われることだけを祈るのは間違っていた。生かされた者として人様に徳を与えなければ』と話していた。平和を願い、人をいたわることで、自らも救われていたのではないか」と語っている。片岡も深堀に「今までの人生は誤りだった。生き方を変えて、被爆体験を次の世代に伝えていくことを使命としたい」と語っていた。修学旅行生らに体験を語る際には「この顔ば、もっとよく見んね」と訴えた。カメラにケロイドを晒すこともいとわず、多くの取材にも応じた。 被爆時の姿が米国戦略爆撃調査団による原爆記録フィルムに収められていたことで、1982年(昭和57年)、「10フィート運動」のもとに制作された原爆記録映画『にんげんをかえせ』にも出演。当時の姿を映画として残すことには抵抗もあったが、その顔を晒すことで戦争の酷さを伝えるため、敢えて公開依頼に応じた。同年にはこの映画を携え、被爆者代表としてバチカンでヨハネ・パウロ2世に謁見。笑顔で励ましの言葉をかけられ、「生きていてよかった」と感涙にむせんだ。 1984年(昭和59年)の長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典では、被爆者代表として「平和への誓い」を読んだ。しかしその後は健康状態を崩し、1993年(平成5年)、胃がんの手術を機に語り部を断念し、平和活動から退いた。 晩年は認知症が進行したが、ミサの祈りは欠かすことがなく、就寝前には必ず自室のマリア像と教皇の写真に祈る日々を送った。死期が迫っても、手足の自由が奪われる中、胸の前で十字を切って祈り続けた。最期は家に受け継がれてきたロザリオを固く握りしめ、死去した。没年齢93歳、生涯独身であった。
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人物歴
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「アルベルト・フォン・シュレンク=ノッチング」の記事における「人物歴」の解説
フランスのナンシー大学(英語版)を卒業後、1886年から超心理学、特にテレパシーや霊媒の研究に従事し、ドイツ国内・国外で霊媒を用いた実験を行った。1909年には霊媒とされるフランス人女性のエヴァ・カリエールを調査対象とし、エヴァの起こした物質化現象を本物と認めた(エヴァ・カリエールも参照)。 1914年に著作『物質化現象、霊媒テレパシー研究のための寄与』を発表するが、当時はそのような研究が異端視されていたため、この著作はドイツの医学界に衝撃を与え、学会から総攻撃を浴びた。しかし妻の実家が裕福だったため、学会の反発に逢っても一向に生活に不自由することはなく、むしろ超心理学研究に没頭し続けた。ミュンヘンの彼の邸宅では定期的に交霊会が開催され、後にはミュンヘン大学心理学研究所の一室で公開実験が行なわれた。この実験に立ち会った人物にはジャーナリストたちに加え、ハンス・ドリーシュやカール・フォン・クリンコフシュトレーム(ドイツ語版)といったドイツの著名な学者たちもいた。 1922年12月20日から1923年1月24日にかけて3回行われた実験は、ドイツの小説家であるトーマス・マンが参加したことでも知られる。当時のマンは著作『ブッデンブローク家の人々』で大きな名声を得ていた上、超常現象を否定する立場におり、名作家としての力量でシュレンク=ノッチングのペテンを暴くことを多くの人々から期待された。しかしマンは実験後、自分が心霊主義者でないとの立場を貫きながらも、この実験に対しては後の書簡で、霊媒の中に別人格が現れたこと、霊のようなもので物体が動いたことなどの現象を述べ、それらを事実として受け止め、トリックやペテンがなかったことを公言して大きな反響を呼んだ。後のマンのノーベル文学賞受賞第1作『Mario und der Zauberer』(1930年、邦題『マーリオと魔術師』)は、この実験がモデルとなった。 性心理学者としては、ドイツの医学者であるリヒャルト・フォン・クラフト=エビングが「サディズム」「マゾヒズム」という用語を考案するのに先立ち、同様に性的感情を伴う加虐・被虐の関係を「アルゴグラニア」という病名で総括した業績でも知られている。
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人物歴
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エヴァの霊能力は、婚約者が没した後の1911年から発現を始めとされ、特に物質化現象で知られた。オカルト関連の書籍に残されている記録によれば、交霊会での実験では、エヴァの口から現れたゼリー状のものが人間の顔や手足の形になって動き回ったという。ドイツの神経科医・催眠術研究家のアルベルト・フォン・シュレンク=ノッチングらは1909年にパリでエヴァの調査を行ない、後にこう書き残している。 霊媒の体から、なにか未知の生物学的プロセスにより、その物質が出ることを我々はしばしば確認できた。それは最初は半流動体だが、生きている物質の特性の一部を備えていた。特に、変化と動作と明確な形を取る特性である。……厳格な各種条件下で数百回にも及ぶ実験に自ら立ち会わなければ、とても信用できそうにない現実であった。 — ピクネット 1990, p. 430より引用(関口篤訳) 1920年代以降にはフランスの心霊研究家であるシャルル・ロベール・リシェやギュスターヴ・ジュレの研究対象となり、エクトプラズム研究に大きく貢献した。ノッチング、リシェ、ジュレらはエヴァの能力を本物と認め、エヴァの能力によって物質化された像を、彼女の心の中にあるイメージ、または彼女の別人格、または死霊と解釈していた。 ジュレの実験ではトリックのないことを証明するため、エヴァの養母、国立パリ病院、パリ大学の心理学教室の医学者たちが立ち会い、エヴァの耳や口、さらには性器の中まで入念に調べられた。しかし、そのように慎重な姿勢を敷いてもなお、エヴァの能力に猜疑心を抱く専門家は少なくなかった。実際にアルジェで300年以上前に死んだインディアンを物質化させた際には、彼女の御者がその一部を演じていたことを暴露している。また1914年には、エヴァが物質化させたという霊の顔がファッション雑誌の顔写真と酷似していたとの報告や、彼女のエクトプラズムとされる物体の正体が紙だったとのイギリスの心霊現象研究協会の調査結果もある。 エヴァの物質化現象の真偽については論争が続いたが、彼女の死後、論争もまた真偽が明らかにならないまま終焉した。
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人物歴
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「クララ・カンヴァース」の記事における「人物歴」の解説
カンヴァースはアメリカ合衆国バーモント州グラフトンで、パプテスト派の農業経営者ニュートン・カンヴァースと母メァリの8番目の子供として生まれた。小学校卒業後にバーモント州師範学校に進学して1873年6月に卒業し、16歳で小学校教師になった。 1876年、自らの教養を高めるためにバーモント州サクストンズ・リヴァーに設立されたばかりのバーモント・アカデミーに入学する。1879年、アカデミー卒業後に、マサチューセッツ州ノーサンプトンのスミス・カレッジ(初代校長L・C・シーリー)に進学する。 スミス・カレッジ卒業後、26歳でヴァーモント州の視学官に任命される。1年後、母校のバーモント・アカデミーに招かれて教師になり、ギリシア語、ドイツ語、修辞学、数学を教えた。教え子には、のちに医学者となるフロレンス・セービンもいた。 1888年8月、父ニュートンが死去する。父の遺体の傍に立ったとき、「神の道を伝えに外国に行け」という神のささやきを感じたカンヴァースは、宣教師になることを決意し、1889年5月バーモント・アカデミーに辞表を提出。アメリカ婦人バプテスト海外伝道協会に宣教師志願を出す。 1890年1月7日、カンヴァースはサンフランシスコを出発して横浜に向かう。1月25日に横浜港に到着し、ネイサン・ブラウンの妻であったシャルロッテ・ブラウンに迎えられた。カンヴァースは、シャルロッテ・ブラウンと生活を共に送るとともに、ブラウンが初代学校長を務める英和女学校で、聖書を教えはじめた。同年9月には、ブラウンが英和女学校の学校長を退くこととなり、33歳で英和女学校の第2代学校長に就任。英和女学校の教師であったエイミー・コーンズ(英和女学校がのちに「捜真女学校」に改められると同時に「山田千代子」に改名)に日本語や日本文化を教わりながら、英和女学校の運営を軌道に乗せていく。 1891年、山手34番に英和女学校の新校舎を建設し、英語の校名を、校舎建築費用の寄付者の名にちなみ「メリー・L・コルビー・ホーム」(Mary L. Colby Home)、後に「メリー・L・コルビー・スクール」(Mary L. Colby School)とする。1892年には、日本名を英和女学校から「捜真女学校」に改めた。「捜真」の名称は、カンヴァースが掲げた教育目標「聖書の真理を捜し求める」にちなむものであり、現在も学校名、法人名にその名を残している。 宣教師として伝道活動もおこない、1891年9月より日曜学校を初め、本牧、北方、寿町などに学校を設けた。 1925年7月、カンヴァースは35年勤めた捜真女学校の校長を辞任して名誉校長となり、アナベル・ポーレーを後任とした。引退後は、山田千代子と共に暮らす。1929年4月には、藍綬褒章を受章した。 1935年1月23日、NHKラジオで病状の悪化が伝えられ、翌24日、77歳で死去する。2月6日に捜真女学校で校葬が行われ、「捜真の見える所に」という生前の意思により、三ツ沢墓地の、捜真女学校が見える丘に埋葬された。墓石には「エホバはわが牧者なり、われ乏しきことあらじ」と刻まれている。 2002年9月、カンヴァースの母校であるバーモント・アカデミーから、セービン賞(the Florence Sabin Distinguished Alumni Award)が授与された。セービン賞は、バーモント・アカデミー卒業者で、カンヴァースの教え子でもあった医学者のフロレンス・セービンを記念して1986年に創設され、各分野で功績がある、または地域社会に貢献した卒業生を表彰する賞である。賞状は、故人に代わって捜真学院が受け取り、校内に掲示されている。
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人物歴
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「リー・ティェンシェン」の記事における「人物歴」の解説
台北市出身。1982年、両親共に高校教育者の家に生まれ、3歳より祖母と父にピアノの手ほどきを受ける。早くに天賦の才を発揮し、台湾学生音楽コンクールヴァイオリン部門全国第3位。2005年2月NHK交響楽団第一コンサートマスター篠崎史紀に師事する、同年6月国立台湾師範大学音楽学部卒業。2007年8月米国に渡り、ボストン芸術学院(ボストン音楽院)大学院に全額奨学生として入学、師1974年パガニーニ国際コンクール銀賞を受賞者リーン‧チャン(Lynn Chang)とボストン交響楽団ヴァイオリン奏者ジョセフ‧マクガゥーリの門戸を叩き。また、グラマシーピアノ三重奏団(Gramercy Trio)、ケプラー弦楽四重奏団(Kepler String Quartet)のメンバーに室内楽を師事した。ボストン芸術学院で研鑽を積み、同芸術学院のオーケストラコンサートマスター、アトランティック交響楽団準コンサートマスター代行を経て。留学中、米国サラソータ音楽祭、ユーチューブ交響楽団高峰会、National Orchestral Institute音楽祭の特別奨学生に選ばれ、マイケル・ティルソン・トーマス(Michael Tilson Thomas)、アンドリュー・リットン(Andrew Litton)、マイケル・スターン(Michael Stern)、ジョセフ‧シルヴァースタインなど世界的指揮者と共演を果たす。ニューヨークのカーネギーホール、ボストンのジョルダンホール、ワシントン・コロンビア特別区のクラリス・スミス演奏芸術センター、フロリダのサラソータ歌劇場で演奏する、ソロ、室内楽奏者、オーケストラ奏者として米国各地にて活動。2009年、修士課程を修了して帰国し、現プロのレアー弦楽器投資顧問とヴァイオリニストとして活躍。
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人物歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/14 02:33 UTC 版)
もとは大阪府内の染色工場に染色技師として勤めており、仕事の合間にボランティアグループに参加して紙芝居に触れたことで、職場の休日に紙芝居を行なっていた。1980年(昭和55年)、工場の倒産を機にプロの紙芝居師となり、大阪市内の公園などで興業を行なう。紙芝居師が激減している21世紀以降においては、兼業で活動する紙芝居師はいるものの、専業の紙芝居師は大阪では杉浦が唯一と見られており、テレビでも「最後の紙芝居師」と紹介されて話題を呼んでいる。 実話に基づくオリジナル作品を多く取り扱っていることが興業の特徴であり、将棋棋士の坂田三吉、日本のシンドラーといわれる杉原千畝、桜の植栽に生涯を捧げた佐藤良二、元プロ野球選手の村田兆治などの作品を持つ。1991年(平成3年)11月には、京都府で開催された日米市民交流の懇親会「日米草の根交流サミット」において、日米友好の懸け橋となったジョン万次郎を題材とした『ジョン万次郎漂流記』を上演。通訳つきながら身振り手振りを交えた熱演で、アメリカ人たち相手に好評を得た。これがきっかけで1992年(平成4年)には初の海外公演として、アメリカのボストンで開催されたジャパン・フェスティバルに出席し、同作を上演して反響を呼んだ。 2003年(平成15年)には『中村久子の生涯』が8年がかりで完成。四肢切断という重度の障害により日本のヘレン・ケラーともいわれた中村久子を取り上げた作品であり、当初は大人向けに作られた作品だったが、後に学校でいじめ問題による自殺が増加したことから学校での公演を始め、生徒たちの反響を呼んだ。2011年(平成23年)に生じた東北地方太平洋沖地震の後は、自ら資金を集めて東北地方の被災地を興業に回って同作を上演。逆境の中でも強く生きていくことを訴え、被災者たちから感謝の言葉を得た。 観客である子供たちへの教育に厳しいことでも知られており、マナーの悪い子供は厳しく叱る。こうした厳しさは子供の親たちにも好評であり、上演を黙って聞いている子供たちに驚きの声を上げる親もいる。 後進の養成にも力を注いでおり、2004年(平成16年)にNPO法人「紙芝居文化協会」を設立。日本伝統の文化である紙芝居の復活と継続のために活動し続けている。
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人物歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/02 21:27 UTC 版)
1945年(昭和20年)、当時の勤務先である旧制長崎県立瓊浦中学校(後の長崎県立長崎西高等学校)で被爆。親友と死別し、自身も重傷を負って死線をさまうなど、苦境に遭いながらも被爆地を生き延びた。 1951年(昭和26年)に上京し、東京都の地方公務員の教員となった。1975年(昭和50年)、当時の勤務先である葛飾区立上平井中学校での修学旅行に際し、被爆地である広島県行きを提案し、現地の被爆者との交流による平和学習を計画した。これには、山陽新幹線が博多まで開通し、東京の公立中学の修学旅行は72時間以内という規制がとれたことが背景にあった。被爆者と連絡が困難なこと、過去の辛い記憶を話したがらない被爆者、子供に残酷な事実を見せたがらない風潮などの困難を乗り越え、これを実現させた。 これにより、慰霊碑の前で被爆者たち自身から体験を聞く「上平井方式」という言葉が生まれ、広島への修学旅行のモデルケースとなった。修学旅行で広島へ行きたいという学校が増え、日本全国から江口のもとへ問い合わせがあった。多くの被爆者たちが証言者として修学旅行生の前で口を開くきっかけにもなった。 1986年(昭和61年)、転勤先の中学校で修学旅行の広島行きを拒否されたため、定年を前に退職。単身で広島へ転居し、江口1人のみで「ヒロシマ・ナガサキの修学旅行を手伝う会」を主宰。広島や長崎を訪れる修学旅行生の受け入れ態勢の整備、子供たちに生命の尊厳と平和の尊さを学ばせる活動のため、証言者としての被爆者たちの世話、各学校の教員たちの相談役などを請け負った。江口の手引きにより、沼田鈴子、坂本文子、佐伯敏子といった著名な被爆者・平和運動家たちが、語り部として修学旅行生たちに被爆体験を語った。 後に、学校の教員たちが勉強を怠って修学旅行を旅行会社任せにしていること、被爆者の証言が次第に画一化されること、広島の表面上が美化されて原爆の痕跡が消えることに失望し、1996年(平成8年)に東京へ戻った。この教員たちの問題については、広島原爆の被爆者でもある平和運動家の沼田鈴子も同感の意を表している。 広島を捨てきれないという思いから、翌1997年(平成9年)に再び広島へ転居するが、翌月には病気により東京帰りを余儀なくされ、翌1998年4月に入院。病床で半生記『いいたかことのいっぱいあっと』を執筆し、前述のような広島の事情に加え、証言者(被爆者)が金銭を要求し始めたことなどを痛烈に批判した。 同1998年6月16日、死去。没年齢69歳。死因は新聞発表では慢性腎不全とあるが、夫人の手紙では原爆症による急性骨髄性白血病とされている。生涯に修学旅行の助力をした学校はのべ千校、生徒数は20万人以上に昇り、葬儀には全国の小中学校から多くの弔電が寄せられた。同1998年10月26日、財団法人ヒロシマ・ピース・センターから、平和への貢献者を対象とした谷本清平和賞が贈られた。
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人物歴
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工部大学校(後の東京大学工学部)を首席で卒業後、渡欧してイギリスのグラスゴー・ロバート造船所とグラスゴー大学で造船学、舶用機関学を修めた。1883年(明治16年)に帰国、工部省の御用掛となり、翌1884年(明治17年)には工部大学校の助教授に就任、翌1886年(明治19年)に工部大学校の教授として造船学を担当し、造船技術者の教育に当たった。 造船関係者の啓蒙を図るべく、1885年(明治18年)に木船と鉄船の比較論を学会で発表。造船技術者の養成のため、1887年(明治20年)に工手学校(後の工学院大学)を設立し、初代校長に就任した。 技術者の養成のみならず船舶設計にも優れた腕を振るっており、三好の設計による蒸気船は、日本固有の材料と先進国の技術の折衷による優秀な船として模範になったといわれる。1893年(明治26年)には通信省の嘱託となり、1896年(明治29年)には日本初の造船規定を制定。 1897年(明治30年)に造船協会(後の日本船舶海洋工学会)を創立し、同会の副会長と理事を歴任。同年、教育と海事関係の評価により正三位勲三等に叙され、1899年(明治32年)には工学博士の学位を授与された。 1910年に講義中に脳出血で倒れ、教授室で看護を受けたがそのまま死去。前年には卒業生たちにより三好の在職25年を記念して奨学資金を拠出されたばかりであり、資金の一部により三好懸賞論文制度が発足された。 謹直・精緻・謙遜な人物とされ、その業績と人徳を称え、後に東京大学工学部船舶試験水槽前に胸像が建てられている。
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図書館職員養成所時代から小説家を志し、学友たちと文芸雑誌を創刊し、小説を掲載するなどの活動を行なっていた。21歳のときに書いた小説『怪物』は、作家の埴谷雄高から評価を受けた。 1962年(昭和37年)、地元の函館で季刊誌『函館百点』(後に『はこだて』、さらに後に『街』と改題)の創刊メンバーに加わり、創刊後も編集と発行に携わった。1975年(昭和50年)からは函館文学学校の講師を務め、雑誌と学校で地元の人材育成と地域文化に貢献した。後に『街』編集スタッフの1人が「文学を志す人以外にも執筆者を求め、発掘するプロでもあった」と語っている。『街』誌上では、時代を辛口に批評する木下のコーナーも人気を博した。 作家としては、文芸雑誌などで小説や随筆の発表を行なった。7歳のときに結核性関節炎で右足切断手術を受け、義足生活を強いられている経験から、切断障害の境遇や障害者差別を取り上げた作品も見受けられる。1997年(平成9年)、第48回函館市文化賞を受賞。翌1998年(平成10年)、小説『湯灌師』で第32回北海道新聞文学賞を受賞した。 2005年2月、木下の高齢を理由に『街』が休刊。同年10月、前立腺癌により満76歳で死去。 没後の2006年(平成18年)6月、木下の遺志を継ぐ元編集員により『街』が復刊され、2012年(平成24年)の廃刊までに通算536号を発行した。翌2013年(平成25年)、『街』の歩みを振り返る『わが街 はこだて タウン誌50年』が発刊された。2007年(平成19年)からは長女夫妻がウェブサイトを立ち上げ、木下の功績を広める活動を行なっている。
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レスリングを嗜む兄の影響でレスリングを始め、幼い頃の夢は「プロレスラーになること」であった。小学校2年時に、指導を受けるレスリングクラブから力をつけるために相撲を薦められ相撲の魅力を知り、小学4年で地元企業の相撲クラブに入る。 わんぱく相撲を皮切りに、小学校から中学生時代にかけて静岡県大会や他県の大会で好成績をおさめて優勝を多く記録した。静岡県相撲連盟の県相撲番付では、2009年度は小結、2010年度・2011年度は関脇、2012年度・2013年度は大関に昇進している。 2013年から2014年にかけては大阪府堺市の国際女子相撲選抜堺大会で2連覇を達成。同2014年には台湾高雄市で開催された第4回世界女子ジュニア相撲選手権大会の軽量級で優勝し、高校生にして初の世界一の座をつかんだ。軽量級で日本人が世界一になったのは、野崎が初めてである。 2015年9月時点で身長160センチメートル (cm) で体重60キログラム kgと女子相撲選手としては比較的小柄な体格だが、足腰の強さと素早い当たりを身上とした。 相撲の傍らでレスリングも続け、中学2年時にレスリング中部日本大会で優勝した。レスリング教室で年少の子供たちを指導した。高校では柔道部に所属した。レスリングや柔道で培った投げ技を相撲にも活かし、特に下手投げや掬い投げを得意とした。2013年12月時点でアマチュア相撲初段の腕前で、足腰の強さに加え、臨機応変な対応や技の覚えの速さを評価されている。 この優れた競技センスによりレスリング界や柔道界からも有力選手としてオファーがあったが、世界女子ジュニア相撲選手権大会以後は相撲に専念した。 2013年5月に日本テレビの番組『未来シアター』で特集されたことで知名度が上昇した。実力に加えて「美少女アスリート」「かわいすぎる力士」としてスポーツファンよりは、スポーツ自体にはさほど興味がないネットユーザーの間で話題となり、女性格闘家たちの写真集『闘う女たち』でも取り上げられるほど知られる存在となった。 2015年に立命館大学スポーツ健康科学部へ進学。当初、立命館大の先輩である山中未久に苦戦を強いられたが、同年6月の全国女子相撲選抜ひめじ大会決勝で山中に初勝利、大学生活での初優勝も果たした。同年7月の全日本女子相撲郡上大会の団体戦(3人1組)では大将として山中とともに出場し、優勝。同年8月に国別対抗の世界女子相撲選手権大会が堺市で開催されたが、日本代表に選抜されず出場の機会が得られなかった。2018年7月の全国学生女子相撲選手権では個人戦・団体戦ともに優勝したが、同年10月の全日本女子相撲選手権では一回戦負けに終わった。 2019年3月に立命館大学を卒業。卒業論文のテーマは「スポーツ競技発展のためのマスコミの役割」で、メディア関係への就職であることをインタビューで明かしている。社会人になっても女子相撲に関わり、将来的には選手としての復帰を望んでいると話した。同年8月には、第一回わんぱく相撲女子全国大会のYoutube生中継の解説者を務めている。 2020年9月にフジテレビのスポーツニュース『S-PARK』の特集「もうひとつの『2020夏 僕らの甲子園。』」のディレクターの一人としてインタビューに応じた。「S-PARK」『Live News α』のオンエア業務にもついているなかで、作新学院女子硬球部の取材を4ヶ月にわたって行ったという。同年12月のインタビューによると、スポーツ部のADをしており、スポーツ番組のディレクターになることを目標としている。相撲との関わり方については「相撲は完全に辞めたわけではないんです。ただ、本格的にやろうとすると、どうしても大会に出て結果を出すことを意識しますし、仕事を辞めて相撲一筋でやりたいということになってしまいます。でも、今はそこまでの思いはなくて、小さい子たちに指導するという目的で関わりたいと思っています」と話している。
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人物歴
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同郷の暦算家・川谷薊山の弟子である片岡直次郎から天文学と暦学を学んだ後、寛政時代初期に天文学の勉強のために江戸にのぼり、和算家の藤田貞資に師事して数学を学んだ。1795年(寛政7年)に公儀で改暦の議が起き、諸国から技術者が募られた際には、その1人に選ばれ、天文方暦作助手として寛政改暦の事業に参画した。 からくりなどの発明にも長け、写天儀(天球儀または天体望遠鏡)、日時計、行程儀(万歩計)などの科学機械を製作したといわれ、「からくり半蔵」の名でも親しまれた。細川の製作したからくりのネズミが、ほかの者の製作したからくりのネコを食い殺したという話すらあり、信憑性はともかく、細川の技術の高さを伝える逸話として後に伝えられてる。 1796年(寛政8年)にからくりの製作方法などを著した自著『機巧図彙(からくりずい)』は、日本初の機械工学書ともいわれ、からくりの仕掛けを図解したものとして最も詳細な文献との評価もある。後に昭和時代のからくり人形師・玉屋庄兵衛(7代目)は1996年(昭和44年)に『機巧図彙』を手本として茶運び人形を完全復元した際、同書の説明のわかりやすさと正確さに舌を巻いている。 没年は同1796年(寛政8年)とされるが、生年不詳のために没年齢は不明。『機巧図彙』の序文の起草年に寛政丁巳、すなわち1797年(寛政9年)とあるため、この没年も正しくないとの見方もある。なお死因については不治の病気との説のほか、禁止されていた技術を公開しようとして死罪となったとの説や、才能を妬まれて毒殺されたとの説もある。
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人物歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/17 03:29 UTC 版)
小学校を3年で落第しており、医学的な教育も全く受けていない人物だが、1955年から1971年にかけて、コンゴーニャスに診療所を構え、毎日数百人の患者たちを相手に、心霊手術とされる医療行為を行なった(後述)。 アリゴーの行為は「奇跡の治療」と呼ばれ、治療を求める人々がブラジル全土から訪れた。第22代ブラジル連邦共和国大統領であるジュセリーノ・クビチェックも、娘がアリゴーの診察により完治したと証言している。アリゴーにより視力を回復した、悪性腫瘍が取り除かれたと主張する患者の数は数百人に昇る。一方でアリゴーは、彼らから治療費をとることは一切なかった。善意の患者たちが彼に治療費を送ったこともあり、その総額は84万ドルに昇るが、アリゴーはその全額を送り返した。 1957年にはブラジル医師会により偽医者と告発され、実刑判決を受けた。一度はクビチェックの特赦により刑が免除されたものの、彼の辞任後の1964年に刑が執行され、刑務所へ収容された。彼の患者をはじめとする貧民層からは、医師会への抗議が殺到した。「アリゴーが無罪放免にならなければ自殺する」との手紙を送りつけた女性もいた。心霊主義者数百人がアリゴーの救出のために刑務所襲撃を企て、アリゴーに諌められる一幕もあった。実際には刑務所内では、アリゴーは囚人たちの暴動を鎮めたり、所内の環境改善に努めるなどの活躍により所員たちから感謝を受け、治療行為のために自由な外出を許可されていた。翌1965年、釈放。 1971年1月11日、交通事故で死去。その約2週間前の1970年末には、周囲に「間もなく自分は死ぬ」「地上での使命が終わる」「もうお前とは会えなくなる」などと漏らしていたと伝えられている。 アリゴーの死は、ブラジル中の新聞でトップニュースとして報じられた。現地の者たちはアリゴーの死を知り「この村は父親を失った」「この村は終わりだ」などと言い合った。現地では2日間の服喪が宣言され、弔意を示すための半旗が掲げられ、葬儀の間は店やバーが閉店になった。ブラジル中から集った弔問客は1万人以上とも2万人以上ともいわれており、その中には、息子の眼病をアリゴーに治療してもらったといわれるブラジルの国民的歌手ロベルト・カルロス(英語版)の姿もあった。
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人物歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/26 20:52 UTC 版)
美容室の家に生まれ、19歳で理容業に入り、26歳で独立開業。1970年代、それまでの髪型よりもファッション性に優れた男性向けの髪型としてパンチパーマを考案すると、これが全国的に流行する髪型となった。永沼が自らパンチパーマ用に改造したヘアーアイロンはその後の改良の末、1980年(昭和55年)に「整髪用電気アイロン」、通称「永沼式エッジ・アイロン」として特許庁に実用新案登録され、理容器具メーカーの協力により商品化された。このアイロンも日本全国で爆発的に売れ、理容関係者らから器具の講習の依頼が殺到したため、永沼は北は北海道から南は沖縄まで、講習のために全国各地を飛び回った。 人物像は、夫人の談によれば「職人の鑑のような人」で、常に店の道具の手入れを欠かさなかった。高熱のヘアーアイロンは頭皮の火傷に繋がり得ることから、夫人がアイロンでわずかでも音をさせると睨みつけたという。2008年(平成20年)に大病を患い余命2年の宣告を受けるが、翌2009年(平成21年)に現場復帰。その後も薬を飲みながら死去の前々日まで店に立ち(死去前日は定休日)、最期まで生涯現役を貫き通した。75歳没。その後は永沼に20年師事した娘婿が店を継いでいる。
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人物歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/04 01:55 UTC 版)
第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)に召集を受けて、京城府の師団に入営。終戦後の1945年(昭和20年)10月、一家で山口県下関市へ引き上げた。翌1946年(昭和21年)に上京、詩人としての活動を始めた。明治以後にハンセン病詩人たちと真摯に付き合った最初の詩人である大江満雄や、秋山清、鶴見俊輔といった詩人・文人たちとも交流した。 1964年(昭和39年)11月、ハンセン病療養所である国立療養所栗生楽泉園(群馬県草津町)の詩人団体・栗生詩話会において、井手則雄の後任の選者として詩人たちの指導を行ない、同会の合同詩集『くまざさの実』『骨片文学』などの編集解説も務めた。1976年5月にはハンセン病文学の書籍出版のため、梨花書房を設立。1979年(昭和54年)には『遥かなる故郷 ライと朝鮮の文学』を刊行した。1982年(昭和57年)、ハンセン病援護団体である藤楓協会の30周年にあたって感謝状を受けた。 ソウル出身者として日朝問題・日韓問題にも取り組み、1962年(昭和37年)には雑誌『朝鮮研究』に「朝鮮植民者」を連載したほか、1972年(昭和47年)には評論集『朝鮮植民者 ある明治人の生涯』を執筆した。1983年(昭和58年)には栗生楽泉園の韓国人である香山末子の詩集『草津アリラン』の解説を執筆した。これらの取り組みは詩人の森田進によって高く評価されている。 晩年には栗生楽泉園のハンセン病回復者の詩人・桜井哲夫の3冊目の詩集を企画し、病床で「必ず私が発行する」と語っていたが、その志を果たせず、1993年(平成5年)に死去した。没年齢69歳。栗生詩話会の選者は、前述の森田進が引き継いだ。
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人物歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/06 21:02 UTC 版)
旧制神戸女学校を卒業後、1932年(昭和7年)から東京市の社会局に勤務し、生活保護関係の仕事に就いた。米一粒すらない貧しい家庭を目にし、東京の中心部にもそのような生活があることに衝撃を受けた。 戦中に、父の故郷である大分県中津市に疎開。親を失った子供たちが駅や神社の境内に群れる姿を見て、保母になることを決意した。終戦後の1948年(昭和23年)、前年に開園したばかりの清浄園の職員(保母)となり、社会福祉という言葉がまだ一般的でなかった時代から、恵まれない子供たちや孤児の母親を務め始めた。 食糧難の時代には、食糧を求めて隣町まで大八車を引くこともあり、徳用マッチの行商や露天商も経験した。園児と青果市場の掃除をして野菜をもらうこともあった。当時の姿は後に「雛鳥に餌をやるツバメにそっくり」と言われた。一方で身内の者は後に「何回『やめようか』と言っていたか、わからない」と、浅田の苦労ぶりを振り返っている。 1961年(昭和36年)には園長に就任し、園児たちと寝食を共にしながら施設の運営を続けた。園児たちに愛を注ぐ一方、卒園後に社会に出ても適応できるようにと、躾は厳しかった。園児には浅田が不動明王に見えたともいい、卒園者たちの生活にも影響を及ぼした。その姿は児童福祉の草分けとして社会福祉事業育成に寄与したとして評価されており、1983年(昭和58年)に勲六等宝冠章を受章、1992年(平成4年)には第26回吉川英治文化賞を受賞した。 晩年になっても心臓病の売薬をポケットに入れ、仕事一筋であった。卒園者たちの結婚や生活の悩みの相談にも乗っていた。1993年10月24日、満81歳で死去。「我が子を持つと子供たちへの愛が薄れる」「愛が散らばれば、この仕事はできない」との理由で、生涯独身であった。浅田のもとで育った子供たちの数は、最終的に700人以上に昇っていた。常に園児が寝つくのを見届ける生活だったため、卒園者や園児たちは、浅田の死去で初めて彼女の寝顔を見たという。
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人物歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/14 21:07 UTC 版)
戦時中に国に尽くしたいとの思いをきっかけに、看護婦を志した。日本赤十字社和歌山支部看護婦養成所を卒業し、1945年(昭和20年)、石川県の山中海軍病院に従軍看護婦として勤務。終戦後に帰郷し、1946年(昭和21年)に南河内郡狭山村立三都小学校の教員となったが、医療の道を捨てきれず、1948年(昭和23年)に退職。大阪府衛生部医務課を経て、翌1949年(昭和24年)には大阪府厚生病院に勤務、大阪市衛生局厚生女学院非常勤講師も務めた。 1953年(昭和28年)から保健婦として勤務。大阪府布施保健所を始め、数か所の保健所へ転勤を繰り返した。1967年(昭和42年)、大阪の同和地区対策の一環で乾が同和地区の検診を行ない、それまで蔑ろにされてきた住民たちの劣悪な健康状態を発表した。しかし大阪府当局が責任を乾に転嫁したため、乾は多くの批難を浴び、中傷や圧迫にも遭った。これに対して乾を支持する同和地区の住民たちが保健所を糾弾した末、大阪府が同和地区へ謝罪する結果となり、乾と同和地区の絆は強いものとなった。1969年(昭和44年)には大阪府松原保健所管内の同和地区の常駐保健婦となった。乾はこの同和地区の住民たちに愛着を抱き、この地区の市営住宅の一角を自宅とし、彼らとともに保健婦活動を繰り広げた。こうした活動は、後年の大阪府松原市における老人介護の基礎ともなった。 1975年(昭和50年)に同松原保健所の保健婦長となり、1978年(昭和53年)に定年退職。同年に大阪府立羽曳野病院に、特定疾患に関する電話相談を請け負う大阪府保険医協会難病相談室が設置されたことで、その室長に就任。業務時間外も自宅で夜遅くまで電話相談を請け負うなど、難病対策に取り組んだ。1986年(昭和61年)、筋萎縮性側索硬化症患者の支援団体である日本ALS協会の設立後、同会の副会長として会長を補佐した。 1989年(昭和64年)には、父から譲り受けた自宅を、保健相談室や身障者用トイレなどを備えたデイケアサービス・ルームに建て替えて「伏山赤鬼園」として地域に開放し、退職保健婦、後輩の保健婦、理学療法士たちとともにリハビリやデイケアのボランティアを行なった。新しい地域医療のモデルとして注目され、開業を目指す保健婦、看護婦、ほかの自治体の保健所担当者ら、多くの見学者も訪れた。 著書に、看護学者の木下安子との共編による『難病と保健活動』(ISBN 978-4-260-36410-2)がある。
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人物歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/10 16:38 UTC 版)
裁縫女学校を卒業後、1916年〈大正5年〉に富良野町(後の富良野市)の味噌醤油醸造業者である名取家に嫁いだ。44歳のときに夫と死別するが、その後も5男4女の子供たちに支えられた。 第二次世界大戦終戦直後に私用で上京した際、犯罪の下働きに使われる戦災孤児たちを目にし、孤児たちを救いたいとの考えに至った。1945年(昭和20年)、樺太からの引揚者が北海道にやって来た際、その孤児たち6人を引き取り、自宅で実子たちとともに育て始めた。その後も孤児たちを引き取り続けて人数が増えたため、町内の古い会館を寮とし、自ら寮母として泊まり込んだ。 孤児たちの増加につれ、政府からの児童養護の助成金の少なさもあって、次第に名取1人の力では無理が生じた。名取は協力者を求め、北海道内で同様の活動をしている佐野文子や松浦カツらとともに、戦災孤児救済団体として北海道婦人共立愛子会を立ち上げた。名取の実子たちも母に代って家業を引き受け、ときには寮の子供たちの世話をして母を支えた。 1949年(昭和24年)、物資不足解決のために自給自足を目指した名取は、富良野町東鳥沼の土地(鳥沼公園付近)を借り、納屋を改築して寮とし、1年をかけて山を切り開いて畑とした。地主である鈴木美津江は、戦後の厳しさの中での名取と子供たちの活力に心を打たれ、死去直前にその土地を名取に寄付した。寮の運営には鈴木のこの協力が大きく、鈴木の没後には寮の広場に鈴木の胸像が建造されている。この頃、名取は子供たちを日本の子供たち、つまり国の子と考え、寮を「国の子寮」と名付けた。 名取は子供たちの宗教教育にも必要を感じ、カトリック富良野教会の創立者であるヤヌワリオ・アロイス・メンラド神父に依頼し、国の子寮でミサを挙げ、多くの子供たちをカトリックの信仰に導くことで、1952年(昭和27年)の教会開設に貢献した。翌1953年(昭和28年)のクリスマスには寮母や子供たち20名が受洗、名取自身も後に受洗した。 寮の創立10年にあたる1955年(昭和30年)、名取は社会福祉功労者として上川支庁社会福祉協議会より表彰を受けた。1961年(昭和36年)には全国社会福祉協議会からの表彰を受けた。 1954年(昭和29年)には昭和天皇と皇后が、戦後行幸の最後である北海道行幸の際に国の子寮を視察した。富良野ではほかに高等学校で奉迎式が行われたのみで、富良野行幸の目的はほとんどが国の子寮の視察にあり、富良野町の行幸記録も寮に関する記述が大部分を占めている。1958年(昭和33年)には皇太子明仁が来寮し、皇族の訪れた寮として子供たちの励みになった。 1964年(昭和39年)末には老朽化した寮に代り、近代的な設備を備えた鉄筋の寮舎が完成した。翌1965年(昭和40年)にはそれまでの名取の功績が高く評価され、富良野市名誉市民第2号に選ばれた。1966年(昭和41年)には三笠宮一家が寮を訪れ、ピアノを寄付した。1967年(昭和42年)には勲五等宝冠章を受章した。 1971年、死去。富良野市国の子寮は戦災孤児たちの卒業後も、様々な事情で自宅を離れた子供たちの生活の場として、名取の遺志を受け継ぐ人々によって運営が続けられている。寮の敷地内には胸像「名取マサ女史之像」が建てられている。
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人物歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 15:27 UTC 版)
「レオノーラ・パイパー」の記事における「人物歴」の解説
ニューハンプシャー州ナシュアで育った。 超常現象関連の書籍に記録によれば、パイパーは1884年に信仰治療師のもとを訪れた際にトランス状態に陥り、インディアンの霊からメッセージを受け、これをきっかけに内輪の交霊会を開催し始めたという。中でも特に、パイパーが知るはずのない交霊会参加者の個人的な秘密を告げる能力に長けており、このほかに自動書記やサイコメトリーの能力も発揮したという。 ウィリアム・ジェームズは1885年からパイパーの交霊会に参加し、その能力を本物と確信したことで、心霊研究の道に入ったという。1887年にはリチャード・ホジソンの調査を受け、2年後の1889年にはSPRの依頼により、ジェームズとホジソンの調査を受けるためにイギリスへわたった。 ホジソンはかつてブラヴァツキー夫人による神秘現象を詐術と暴いたことがあり、パイパーに対しても当初は懐疑的な立場をとっており、周囲からもブラヴァツキー同様にパイパーのトリックを暴くことを期待されていた。しかしパイパーの交霊会においてパイパーがホジソンの亡き旧友の名を名乗り、交霊会の参加者たちしか知りえないことを語る様子を見、パイパーのもとに旧友の霊が現れたと認め、死後生存の証拠を得たと考えた。SPRの懐疑派の代表的人物といえるホジソンが、心霊主義を肯定する立場をとってパイパーの能力を本物と認めたことは、SPRにとっては大事件であった。こうした実績から、パイパーはアメリカを代表する霊媒の1人との声もある。同様にパイパーを通じて心霊主義を支持した学者にはオリバー・ロッジ、ジェームズ・ヒスロップ(英語版)、フレデリック・マイヤースらがいる。 また心霊主義に関心を持っていたことで知られる作家のコナン・ドイルは、1899年にパイパーがトランス状態で「世界各地で恐ろしい戦乱が生じます」と語ったことを、1914年開戦の第一次世界大戦を示したことだと著書『The new revelations』で述べており、パイパーをダニエル・ダングラス・ホームと並ぶ世界最高級の霊媒の1人として高く評価している。 ただしSPRの初代会長であるヘンリー・シジウィックらは、ホジソンの旧友の霊が交霊会参加者について語ったとされる件を、パイパーがテレパシーで参加者たちの思考を読み取ったとの解釈できるなどの理由で(超ESP仮説)、本件を心霊主義の確固たる証拠と認めることはなかった。パイパーの支配霊の1人はフランス人の医師の霊とされるが、フランス語をほとんど話すことができず、医学の知識もなかったとの批判もある。ホジソンがパイパーの調査を開始した際も、同席していたウィリアム・ジェームズがパイパーの指導霊と話す際、ジェームズが少しでも流暢なフランス語を話すと、この霊は返答に詰まったという。また、ホジソンが2人の子供をもうけて長生きすると予言したが、これも当たることはなかった。
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