人物歴とは? わかりやすく解説

人物歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/20 00:21 UTC 版)

田中治彦」の記事における「人物歴」の解説

東京府東京市日本橋区室町(現:東京都中央区日本橋室町出身の父と東京府東京市下谷区金杉(現:東京都台東区下谷出身の母の子として疎開先の東京都世田谷区松原町生まれた戦争による財産喪失影響続き成人まで生活費学費意外に親からの援助無かった最終校東京都世田谷区三軒茶屋にあった日本大学農獣医学部(この学部1995年12月日本大学生物資源科学部等に改組されて今はない)。 東京育ちの後、1986年昭和61年東京都港区六本木三丁目から山梨県北巨摩郡高根町字念場原(現:山梨県北杜市高根町清里)に移住した。家は代々浄土真宗大谷派で、信仰仏教菩提寺東京都台東区寿にある善照寺

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片岡ツヨ」の記事における「人物歴」の解説

敬虔なカトリック信者の家に誕生1945年昭和20年8月自身24歳のとき、長崎市被爆爆心地からの距離は1.1キロメートル)。肉親13人失い、自身重傷負い、左耳を失聴、顔の右半分には大火傷によるケロイド残った被爆後初め自分の顔を見たときは「化け物思った」といい、思わず鏡を地面叩きつけたという。後に遺した手記には「若さ誇っていたあの顔が化け物のようでした」「人前立てないような人生背負されました」と記されている。化粧でもケロイド隠せず、結婚諦めた好奇視線浴び何度も自殺考えたが、自殺信仰上で大罪に当たることから、カトリック信者として信仰すがって生き続けた1961年昭和36年)、写真家東松照明知人紹介により片岡撮影開始以後、約50年にわたる撮影により、原爆被害の実態世界中訴えられた。写真海外にも紹介され多くの人に原爆悲惨さ伝えた。 父は原爆投下前にすでに死去、兄や姉たちも独立していたため、母と2人暮していたが、1962年昭和37年)に母と死別した後は、1人孤独に暮した同じく長崎原爆被爆者カトリック教徒でもある医学博士永井隆は「原爆神の摂理」と説いており、片岡もこの考え触れるが、「神がなぜこんなに酷いことを?」と信仰迷い抱き続けていた。 1981年昭和56年)、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世長崎来訪教皇の「戦争人間仕業」「過去振り返ることは将来対す責任を負うこと」との言葉感銘受けたことが転機となり、「自分のような人間つくってはいけない」「自分を平和の道具として使ってほしい」と、60歳にして被爆体験語り部始めた長崎平和推進協会写真資料調査部会長務め深堀好敏は後に「片岡さんはローマ法王会って別人ようになった」「ツヨさんは『自分救われることだけを祈るのは間違っていた。生かされた者として人様に徳を与えなければ』と話していた。平和を願い、人をいたわることで、自らも救われていたのではないか」と語っている。片岡深堀に「今まで人生誤りだった。生き方変えて被爆体験次の世代伝えていくことを使命としたい」と語っていた。修学旅行生らに体験を語る際には「この顔ば、もっとよく見んね」と訴えたカメラケロイド晒すともいとわず、多く取材にも応じた被爆時の姿が米国戦略爆撃調査団による原爆記録フィルム収められていたことで、1982年昭和57年)、「10フィート運動」のもとに制作され原爆記録映画にんげんをかえせ』にも出演当時の姿を映画として残すことには抵抗もあったが、その顔を晒すことで戦争酷さ伝えるため、敢えて公開依頼応じた同年にはこの映画携え被爆者代表としてバチカンヨハネ・パウロ2世謁見笑顔励まし言葉かけられ、「生きていてよかった」と感涙むせんだ1984年昭和59年)の長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典では、被爆者代表として「平和へ誓い」を読んだ。しかしその後健康状態崩し1993年平成5年)、胃がんの手術を機に語り部断念し平和活動から退いた晩年認知症進行したが、ミサ祈り欠かすことがなく、就寝前には必ず自室マリア像教皇写真に祈る日々送った死期迫っても、手足の自由が奪われる中、胸の前で十字を切って祈り続けた最期は家に受け継がれてきたロザリオ固く握りしめ、死去した没年93歳、生涯独身であった

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アルベルト・フォン・シュレンク=ノッチング」の記事における「人物歴」の解説

フランスナンシー大学英語版)を卒業後、1886年から超心理学、特にテレパシー霊媒研究従事しドイツ国内国外で霊媒用いた実験行った1909年には霊媒とされるフランス人女性エヴァ・カリエール調査対象とし、エヴァ起こした物質化現象本物認めたエヴァ・カリエール参照)。 1914年著作物質化現象霊媒テレパシー研究のための寄与』を発表するが、当時そのような研究異端視されていたため、この著作ドイツ医学界衝撃与え学会から総攻撃浴びた。しかし妻の実家裕福だったため、学会反発に逢っても一向に生活に不自由することはなく、むしろ超心理学研究没頭し続けたミュンヘン彼の邸宅では定期的に交霊会開催され、後にはミュンヘン大学心理学研究所一室公開実験が行なわれた。この実験立ち会った人物にはジャーナリストたちに加えハンス・ドリーシュやカール・フォン・クリンコフシュトレーム(ドイツ語版)といったドイツ著名な学者たちもいた。 1922年12月20日から1923年1月24日にかけて3回行われた実験は、ドイツ小説家であるトーマス・マン参加したことでも知られる当時マン著作ブッデンブローク家の人々』で大きな名声得ていた上、超常現象否定する立場におり、名作としての力量シュレンク=ノッチングのペテン暴くことを多く人々から期待された。しかしマン実験後、自分心霊主義者でないとの立場貫きながらも、この実験に対しては後の書簡で、霊媒中に別人格現れたこと、霊のようなもので物体動いたことなどの現象述べ、それらを事実として受け止めトリックペテンがなかったことを公言して大きな反響呼んだ。後のマンノーベル文学賞受賞第1作Mario und der Zauberer』(1930年邦題マーリオ魔術師』)は、この実験モデルとなった。 性心理学者としては、ドイツ医学者であるリヒャルト・フォン・クラフト=エビングが「サディズム」「マゾヒズム」という用語を考案するのに先立ち同様に性的感情を伴う加虐被虐の関係を「アルゴグラニア」という病名総括した業績でも知られている。

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エヴァ・カリエール」の記事における「人物歴」の解説

エヴァ霊能力は、婚約者没した後の1911年から発現始めとされ、特に物質化現象知られた。オカルト関連書籍残されている記録によれば交霊会での実験では、エヴァの口から現れゼリー状のものが人間の顔手足の形になって動き回ったという。ドイツ神経科医催眠術研究家アルベルト・フォン・シュレンク=ノッチングらは1909年パリエヴァ調査行ない、後にこう書き残している。 霊媒の体から、なにか未知の生物学的プロセスにより、その物質が出ることを我々はしばし確認できた。それは最初は半流動体だが、生きている物質特性一部備えていた。特に、変化動作明確な形を取る特性である。……厳格な各種条件下で数百回にも及ぶ実験に自ら立ち会なければ、とても信用できそうにない現実であった。 — ピクネット 1990, p. 430より引用関口篤訳) 1920年代以降にはフランス心霊研究家であるシャルル・ロベール・リシェギュスターヴ・ジュレ研究対象となり、エクトプラズム研究大きく貢献した。ノッチング、リシェジュレらはエヴァ能力本物認めエヴァ能力によって物質化された像を、彼女の心の中にあるイメージ、または彼女の別人格、または死霊解釈していた。 ジュレ実験ではトリックのないことを証明するため、エヴァ養母国立パリ病院パリ大学心理学教室医学者たちが立ち会いエヴァの耳や口、さらには性器の中まで入念に調べられた。しかし、そのように慎重な姿勢敷いてもなお、エヴァ能力猜疑心を抱く専門家少なくなかった実際にアルジェ300年上前死んだインディアン物質化させた際には、彼女の御者がその一部演じていたことを暴露している。また1914年には、エヴァ物質化させたという霊の顔がファッション雑誌顔写真酷似していたとの報告や、彼女のエクトプラズムとされる物体正体が紙だったとのイギリス心霊現象研究協会調査結果もある。 エヴァ物質化現象真偽については論争続いたが、彼女の死後論争もまた真偽明らかにならないまま終焉した。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/19 21:51 UTC 版)

クララ・カンヴァース」の記事における「人物歴」の解説

カンヴァースはアメリカ合衆国バーモント州グラフトンで、パプテスト派の農業経営者ニュートン・カンヴァースと母メァリの8番目の子供として生まれた小学校卒業後バーモント州師範学校進学して1873年6月卒業し16歳小学校教師になった1876年、自らの教養高めるためにバーモント州サクストンズ・リヴァーに設立されたばかりのバーモント・アカデミーに入学する1879年アカデミー卒業後に、マサチューセッツ州ノーサンプトンスミス・カレッジ初代校長L・Cシーリー)に進学するスミス・カレッジ卒業後、26歳ヴァーモント州視学官任命される1年後母校のバーモント・アカデミーに招かれ教師になり、ギリシア語ドイツ語修辞学数学教えた教え子には、のちに医学者となるフロレンス・セービンもいた。 1888年8月、父ニュートン死去する。父の遺体の傍に立ったとき、「神の道を伝え外国行け」という神のささやき感じたカンヴァースは、宣教師になることを決意し1889年5月バーモント・アカデミーに辞表提出アメリカ婦人バプテスト海外伝道協会宣教師志願を出す。 1890年1月7日、カンヴァースはサンフランシスコ出発して横浜に向かう。1月25日横浜港到着しネイサン・ブラウンの妻であったシャルロッテ・ブラウンに迎えられた。カンヴァースは、シャルロッテ・ブラウンと生活を共に送るとともにブラウン初代学校長務め英和女学校で、聖書教えはじめた同年9月には、ブラウン英和女学校学校長を退くこととなり、33歳英和女学校第2代学校長就任英和女学校教師であったエイミー・コーンズ(英和女学校がのちに「捜真女学校」に改められる同時に山田千代子」に改名)に日本語日本文化教わりながら、英和女学校運営軌道乗せていく。 1891年山手34番に英和女学校新校舎建設し、英語の校名を、校舎建築費用寄付者の名にちなみ「メリー・L・コルビー・ホーム」(Mary L. Colby Home)、後に「メリー・L・コルビー・スクール」(Mary L. Colby School)とする。1892年には、日本名英和女学校から「捜真女学校」に改めた。「捜真」の名称は、カンヴァースが掲げた教育目標聖書真理捜し求める」にちなむものであり、現在も学校名法人名にその名を残している。 宣教師として伝道活動おこない1891年9月より日曜学校初め本牧北方寿町などに学校設けた1925年7月、カンヴァースは35年勤めた捜真女学校校長辞任して名誉校長となり、アナベル・ポーレーを後任とした。引退後は、山田千代子と共に暮らす。1929年4月には、藍綬褒章受章した1935年1月23日NHKラジオ病状悪化伝えられ、翌24日77歳死去する2月6日捜真女学校校葬が行われ、「捜真の見える所に」という生前意思により、三ツ沢墓地の、捜真女学校見える丘に埋葬された。墓石には「エホバはわが牧者なり、われ乏しきことあらじ」と刻まれている。 2002年9月、カンヴァースの母校であるバーモント・アカデミーから、セービン賞(the Florence Sabin Distinguished Alumni Award)が授与された。セービン賞は、バーモント・アカデミー卒業者で、カンヴァースの教え子でもあった医学者フロレンス・セービン記念して1986年創設され各分野功績がある、または地域社会貢献した卒業生表彰する賞である。賞状は、故人に代わって捜真学院受け取り校内掲示されている。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/29 14:18 UTC 版)

リー・ティェンシェン」の記事における「人物歴」の解説

台北市出身1982年両親共に高校教育者の家に生まれ3歳より祖母と父にピアノの手ほどきを受ける。早く天賦の才発揮し台湾学生音楽コンクールヴァイオリン部­門全国第3位2005年2月NHK交響楽団第一コンサートマスター篠崎史紀師事する同年6月国立台湾師範大学音楽学部卒業2007年8月米国渡りボストン芸術­学院ボストン音楽院大学院全額奨学生として入学、師1974年パガニーニ国際コンクール銀賞受賞者リーンチャンLynn Chang)とボストン交響楽団ヴァイオリン奏者ジョセフ‧マクガゥーリの門戸を­叩きまた、グラマシーピアノ三重奏団(Gramercy Trio)、ケプラー弦楽四重奏団Kepler String Quartet)のメンバー室内楽師事したボストン芸術学院で研鑽積み、同芸術学院のオーケストラコンサートマスター­、アトランティック交響楽団コンサートマスター代行経て留学中米国サラソータ音楽祭ユーチューブ交響楽団高峰会、National Orchestral Institute音楽祭の特別奨学生選ばれマイケル・ティルソン・トーマスMichael Tilson Thomas)、アンドリュー・リットンAndrew Litton)、マイケル・スターンMichael Stern)、ジョセフシルヴァースタインなど世界的指揮者共演を果たす­。ニューヨークカーネギーホールボストンのジョルダンホール、ワシントン・コロンビア特別区のクラリス・スミス演奏芸術センターフロリダサラソータ歌劇場演奏す­る、ソロ室内楽奏者オーケストラ奏者として米国各地にて活動2009年修士課程修了し帰国し、現プロレアー弦楽器投資顧問ヴァイオリニストとして活躍

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杉浦貞」の記事における「人物歴」の解説

もとは大阪府内染色工場に染色技師として勤めており、仕事合間にボランティアグループに参加して紙芝居触れたことで、職場休日紙芝居行なっていた。1980年昭和55年)、工場倒産機にプロ紙芝居師となり、大阪市内公園など興業行なう紙芝居師激減している21世紀以降においては兼業活動する紙芝居師はいるものの、専業紙芝居師大阪では杉浦唯一見られており、テレビでも「最後紙芝居師」と紹介され話題呼んでいる。 実話に基づくオリジナル作品多く取り扱っていることが興業特徴であり、将棋棋士坂田三吉日本のシンドラーといわれる杉原千畝植栽生涯捧げた佐藤良二元プロ野球選手村田兆治などの作品を持つ。1991年平成3年11月には、京都府開催され日米市民交流懇親会日米草の根交流サミット」において、日米友好懸け橋となったジョン万次郎題材とした『ジョン万次郎漂流記』を上演通訳つきなが身振り手振り交えた熱演で、アメリカ人たち相手好評得た。これがきっかけ1992年平成4年)には初の海外公演として、アメリカボストン開催されたジャパン・フェスティバルに出席し同作上演して反響呼んだ2003年平成15年)には『中村久子生涯』が8年がかりで完成四肢切断という重度障害により日本ヘレン・ケラーともいわれた中村久子取り上げた作品であり、当初大人向け作られ作品だったが、後に学校いじめ問題による自殺増加したことから学校での公演始め生徒たち反響呼んだ2011年平成23年)に生じた東北地方太平洋沖地震の後は、自ら資金集めて東北地方被災地興業回って同作上演逆境中でも強く生きていくことを訴え被災者たちから感謝言葉得た観客ある子供たちへの教育厳しいことでも知られており、マナーの悪い子供厳しく叱る。こうした厳しさ子供の親たちにも好評であり、上演黙って聞いている子供たち驚き声を上げる親もいる。 後進養成にも力を注いでおり、2004年平成16年)にNPO法人紙芝居文化協会」を設立日本伝統文化である紙芝居復活継続のために活動し続けている。

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江口保」の記事における「人物歴」の解説

1945年昭和20年)、当時勤務先である旧制長崎県立瓊浦中学校(後の長崎県立長崎西高等学校)で被爆親友死別し自身重傷負って死線をさまうなど、苦境遭いながらも被爆地を生き延びた1951年昭和26年)に上京し東京都地方公務員教員となった1975年昭和50年)、当時勤務先である葛飾区立上平井中学校での修学旅行際し被爆地である広島県行き提案し現地被爆者との交流による平和学習計画した。これには、山陽新幹線博多まで開通し東京公立中学修学旅行72時間以内という規制がとれたことが背景にあった被爆者連絡困難なこと、過去の辛い記憶話したがらない被爆者子供残酷な事実見せたがらない風潮などの困難を乗り越え、これを実現させた。 これにより、慰霊碑の前で被爆者たち自身から体験聞く上平井方式」という言葉生まれ広島への修学旅行モデルケースとなった修学旅行広島行きたいという学校増え日本全国から江口のもとへ問い合わせがあった。多く被爆者たちが証言者として修学旅行生の前で口を開くきっかけにもなった。 1986年昭和61年)、転勤先の中学校修学旅行広島行きを拒否されたため、定年前に退職単身広島転居し江口1人のみで「ヒロシマ・ナガサキ修学旅行手伝う会」を主宰広島長崎訪れ修学旅行生の受け入れ態勢整備子供たち生命の尊厳と平和の尊さ学ばせる活動のため、証言としての被爆者たちの世話各学校教員たちの相談役などを請け負った江口の手引きにより、沼田鈴子坂本文子佐伯敏子といった著名な被爆者平和運動家たちが、語り部として修学旅行生たち被爆体験語った。 後に、学校の教員たちが勉強怠って修学旅行旅行会社任せにしていること、被爆者証言次第画一化されること、広島表面上が美化され原爆痕跡消えることに失望し1996年平成8年)に東京へ戻った。この教員たちの問題については、広島原爆被爆者でもある平和運動家沼田鈴子同感の意を表している。 広島捨てきれないという思いから、翌1997年平成9年)に再び広島転居するが、翌月には病気により東京帰り余儀なくされ、翌1998年4月入院病床半生記『いいたかことのいっぱいあっと』を執筆し前述のような広島事情加え証言者(被爆者)が金銭要求し始めたことなどを痛烈に批判した。 同1998年6月16日死去没年69歳死因新聞発表では慢性腎不全とあるが、夫人の手紙では原爆症による急性骨髄性白血病とされている。生涯修学旅行助力をした学校はのべ千校、生徒数20万人以上に昇り葬儀には全国小中学校から多く弔電寄せられた。同1998年10月26日財団法人ヒロシマ・ピース・センターから、平和へ貢献者対象とした谷本清平和賞贈られた。

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三好晋六郎」の記事における「人物歴」の解説

工部大学校(後の東京大学工学部)を首席卒業後、渡欧しイギリスのグラスゴー・ロバート造船所グラスゴー大学造船学舶用機関学を修めた1883年明治16年)に帰国工部省御用掛となり、翌1884年明治17年)には工部大学校助教授就任、翌1886年明治19年)に工部大学校教授として造船学担当し造船技術者の教育当たった造船関係者啓蒙を図るべく、1885年明治18年)に木船鉄船比較論を学会発表造船技術者の養成のため、1887年明治20年)に工手学校(後の工学院大学)を設立し初代校長就任した技術者養成のみならず船舶設計にも優れた腕を振るっており、三好設計による蒸気船は、日本固有の材料先進国技術折衷による優秀な船として模範になったといわれる1893年明治26年)には通信省の嘱託となり、1896年明治29年)には日本初造船規定制定1897年明治30年)に造船協会(後の日本船舶海洋工学会)を創立し、同会の副会長理事歴任同年教育海事関係の評価により正三位勲三等叙され1899年明治32年)には工学博士学位授与された。 1910年講義中に脳出血倒れ教授室で看護受けたそのまま死去前年には卒業生たちにより三好在職25年記念して奨学資金拠出されたばかりであり、資金一部により三好懸賞論文制度発足された。 謹直精緻謙遜人物とされ、その業績人徳称え、後に東京大学工学部船舶試験水槽前に胸像建てられている。

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木下順一」の記事における「人物歴」の解説

図書館職員養成所時代から小説家志し学友たちと文芸雑誌創刊し小説掲載するなどの活動行なっていた。21歳のときに書いた小説怪物』は、作家埴谷雄高から評価受けた1962年昭和37年)、地元函館季刊誌函館百点』(後に『はこだて』、さらに後に『街』と改題)の創刊メンバー加わり創刊後編集発行携わった1975年昭和50年)からは函館文学学校講師務め雑誌学校地元人材育成地域文化貢献した。後に『街』編集スタッフ1人が「文学志す人以外にも執筆者求め発掘するプロでもあった」と語っている。『街』誌上では、時代辛口批評する木下のコーナー人気博した作家としては、文芸雑誌などで小説随筆発表行なった7歳のときに結核性関節炎右足切断手術を受け、義足生活を強いられている経験から、切断障害境遇障害者差別取り上げた作品見受けられる1997年平成9年)、第48回函館市文化賞受賞。翌1998年平成10年)、小説湯灌師』で第32回北海道新聞文学賞受賞した2005年2月木下高齢理由に『街』が休刊同年10月前立腺癌により満76歳で死去没後2006年平成18年6月木下遺志を継ぐ編集員により『街』が復刊され、2012年平成24年)の廃刊までに通算536号発行した。翌2013年平成25年)、『街』の歩み振り返る『わが街 はこだて タウン誌50年』が発刊された。2007年平成19年)からは長女夫妻ウェブサイト立ち上げ木下功績広め活動行なっている。

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野崎舞夏星」の記事における「人物歴」の解説

レスリング嗜む兄の影響レスリング始め幼い頃の夢は「プロレスラーになること」であった小学校2年時に、指導を受けるレスリングクラブから力をつけるために相撲薦められ相撲魅力知り小学4年地元企業相撲クラブに入る。 わんぱく相撲皮切りに小学校から中学生時代にかけて静岡県大会他県大会で好成績おさめて優勝多く記録した静岡県相撲連盟県相番付では、2009年度小結2010年度・2011年度関脇2012年度・2013年度大関昇進している。 2013年から2014年にかけては大阪府堺市国際女子相撲選抜大会で2連覇達成。同2014年には台湾高雄市開催され第4回世界女子ジュニア相撲選手権大会軽量級優勝し高校生にして初の世界一の座をつかんだ軽量級日本人世界一になったのは、野崎初めてである。 2015年9月時点身長160センチメートル (cm) で体重60キログラム kg女子相撲選手としては比較小柄な体格だが、足腰強さと素早い当たりを身上とした。 相撲傍らレスリング続け中学2年時レスリング中部日本大会で優勝したレスリング教室年少の子供たちを指導した高校では柔道部所属したレスリング柔道培った投げ技相撲にも活かし、特に下手投げ掬い投げを得意とした。2013年12月時点アマチュア相撲初段腕前で、足腰強さ加え臨機応変な対応や技の覚え速さ評価されている。 この優れた競技センスによりレスリング界や柔道界からも有力選手としてオファーがあったが、世界女子ジュニア相撲選手権大会以後相撲専念した2013年5月日本テレビ番組未来シアター』で特集されたことで知名度上昇した実力加えて美少女アスリート」「かわいすぎ力士」としてスポーツファンよりは、スポーツ自体にはさほど興味がないネットユーザーの間で話題となり、女性格闘家たちの写真集闘う女たち』でも取り上げられるほど知られる存在となった2015年立命館大学スポーツ健康科学部進学当初立命館大の先輩である山中未久苦戦強いられたが、同年6月全国女子相撲選抜ひめじ大会決勝山中に初勝利大学生活での初優勝果たした同年7月全日本女子相撲郡上大会団体戦(3人1組)では大将として山中とともに出場し優勝同年8月国別対抗世界女子相撲選手権大会堺市開催されたが、日本代表選抜され出場機会得られなかった。2018年7月全国学生女相撲選手権では個人戦団体戦ともに優勝したが、同年10月全日本女子相撲選手権では一回戦負け終わった2019年3月立命館大学卒業卒業論文テーマは「スポーツ競技発展のためのマスコミ役割」で、メディア関係への就職であることをインタビュー明かしている。社会人になって女子相撲関わり将来的には選手としての復帰望んでいると話した同年8月には、第一回わんぱく相撲女子全国大会Youtube生中継解説者務めている。 2020年9月フジテレビスポーツニュースS-PARK』の特集もうひとつの『2020僕らの甲子園。』」のディレクター一人としてインタビュー応じた。「S-PARK」『Live News α』のオンエア業務にもついているなかで、作新学院女子硬球部の取材を4ヶ月わたって行ったという。同年12月インタビューによると、スポーツ部のADをしており、スポーツ番組ディレクターになることを目標としている。相撲との関わり方については「相撲は完全に辞めたわけではないんです。ただ、本格的にやろうとすると、どうしても大会出て結果を出すことを意識しますし、仕事辞めて相撲一筋やりたいということになってしまいますでも、今はそこまで思いはなくて、小さい子たちに指導するという目的関わりたいと思っています」と話している。

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細川頼直」の記事における「人物歴」の解説

同郷暦算家・川谷山の弟子である片岡直次郎から天文学暦学学んだ後、寛政時代初期天文学勉強のために江戸にのぼり、和算家藤田貞資師事して数学学んだ1795年寛政7年)に公儀改暦の議が起き諸国から技術者募られた際には、その1人に選ばれ天文方暦作助手として寛政改暦事業参画した。 からくりなどの発明にも長け、写天儀(天球儀または天体望遠鏡)、日時計行程儀(万歩計)などの科学機械製作したといわれ、「からくり半蔵」の名でも親しまれた。細川製作したからくりネズミが、ほかの者の製作したからくりネコ食い殺したという話すらあり、信憑性はともかく、細川技術の高さを伝え逸話として後に伝えられてる。 1796年寛政8年)にからくり製作方法などを著した自著機巧図彙からくりずい)』は、日本初機械工学書ともいわれ、からくり仕掛け図解したものとして最も詳細な文献との評価もある。後に昭和時代からくり人形師・玉屋庄兵衛7代目)は1996年昭和44年)に『機巧図彙』を手本として茶運び人形を完全復元した際、同書説明わかりやすさ正確さ舌を巻いている。 没年は同1796年寛政8年とされるが、生年不詳のために没年齢は不明。『機巧図彙』の序文起草年に寛政丁巳、すなわち1797年寛政9年)とあるため、この没年正しくないとの見方もある。なお死因について不治の病気との説のほか、禁止されていた技術公開しようとして死罪となったとの説や、才能妬まれ毒殺されたとの説もある。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/17 03:29 UTC 版)

ホセ・アリゴー」の記事における「人物歴」の解説

小学校3年落第しており、医学的な教育も全く受けていない人物だが、1955年から1971年にかけて、コンゴーニャス診療所構え毎日数百人の患者たち相手に、心霊手術とされる医療行為行なった後述)。 アリゴー行為は「奇跡治療」と呼ばれ治療求め人々ブラジル全土から訪れた。第22ブラジル連邦共和国大統領であるジュセリーノ・クビチェックも、娘がアリゴー診察により完治した証言している。アリゴーにより視力回復した悪性腫瘍取り除かれたと主張する患者の数は数百人に昇る一方でアリゴーは、彼らから治療費をとることは一切なかった。善意患者たち彼に治療費送ったこともあり、その総額84ドル昇るが、アリゴーはその全額送り返した1957年にはブラジル医師会により偽医者告発され実刑判決受けた一度クビチェック特赦により刑が免除されたものの、彼の辞任後1964年に刑が執行され刑務所へ収容された。彼の患者はじめとする貧民層からは、医師会への抗議殺到した。「アリゴー無罪放免にならなければ自殺する」との手紙を送りつけた女性もいた。心霊主義者数百人がアリゴー救出のために刑務所襲撃企てアリゴー諌められる一幕もあった。実際に刑務所内では、アリゴー囚人たち暴動鎮めたり、所内環境改善努めるなどの活躍により所員たちから感謝を受け、治療行為のために自由な外出許可されていた。翌1965年釈放1971年1月11日交通事故死去。その約2週間前の1970年末には、周囲に「間もなく自分は死ぬ」「地上での使命が終わる」「もうお前とは会えなくなる」などと漏らしていたと伝えられている。 アリゴーの死は、ブラジル中の新聞トップニュースとして報じられた。現地の者たちはアリゴーの死を知り「この父親失った」「この終わりだ」などと言い合った現地では2日間の服喪宣言され弔意を示すための半旗掲げられ葬儀の間は店やバー閉店になったブラジル中から集った弔問客1万人以上とも2万人以上ともいわれており、その中には息子眼病アリゴー治療してもらったといわれるブラジル国民的歌手ロベルト・カルロス英語版)の姿もあった。

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人物歴

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永沼重己」の記事における「人物歴」の解説

美容室の家に生まれ19歳理容業入り26歳独立開業1970年代それまで髪型よりもファッション性優れた男性向け髪型としてパンチパーマ考案すると、これが全国的に流行する髪型となった永沼が自らパンチパーマ用に改造したヘアーアイロンその後の改良の末、1980年昭和55年)に「整髪電気アイロン」、通称永沼式エッジ・アイロン」として特許庁実用新案登録され理容器具メーカー協力により商品化された。このアイロン日本全国爆発的に売れ理容関係者らから器具講習依頼殺到したため、永沼は北は北海道から南は沖縄まで、講習のために全国各地飛び回った人物像は、夫人の談によれば職人の鑑のような人」で、常に店の道具の手入れを欠かさなかった。高熱ヘアーアイロン頭皮火傷繋がり得ることから、夫人アイロンでわずかでも音をさせると睨みつけたという。2008年平成20年)に大病患い余命2年宣告を受けるが、翌2009年平成21年)に現場復帰その後飲みながら死去前々日まで店に立ち(死去前日定休日)、最期まで生涯現役貫き通した75歳没。その後永沼20年師事した娘婿が店を継いでいる。

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人物歴

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村松武司」の記事における「人物歴」の解説

第二次世界大戦中1944年昭和19年)に召集受けて京城府師団入営終戦後1945年昭和20年10月一家山口県下関市引き上げた。翌1946年昭和21年)に上京詩人としての活動始めた明治以後ハンセン病詩人たちと真摯に付き合った最初詩人である大江満雄や、秋山清鶴見俊輔といった詩人文人たちとも交流した1964年昭和39年11月ハンセン病療養所である国立療養所栗生楽泉園群馬県草津町)の詩人団体栗生詩話会において、井手則雄後任選者として詩人たちの指導行ない、同会の合同詩集くまざさの実』『骨片文学』などの編集解説務めた1976年5月にはハンセン病文学書籍出版のため、梨花書房設立1979年昭和54年)には『遥かなる故郷 ライ朝鮮文学』を刊行した1982年昭和57年)、ハンセン病援護団体である協会30周年にあたって感謝状受けたソウル出身者として日朝問題日韓問題にも取り組み1962年昭和37年)には雑誌朝鮮研究』に「朝鮮植民者」を連載したほか、1972年昭和47年)には評論集朝鮮植民者 ある明治人の生涯』を執筆した1983年昭和58年)には栗生楽泉園韓国人である香山末子詩集草津アリラン』の解説執筆した。これらの取り組み詩人森田進によって高く評価されている。 晩年には栗生楽泉園ハンセン病回復者の詩人桜井哲夫の3冊目の詩集企画し病床で「必ず私が発行する」と語っていたが、その志を果たせず、1993年平成5年)に死去した没年69歳栗生詩話会の選者は、前述森田進引き継いだ

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浅田隆子」の記事における「人物歴」の解説

旧制神戸女学校を卒業後1932年昭和7年)から東京市社会局勤務し生活保護関係の仕事就いた。米一粒すらない貧し家庭を目にし、東京中心部にもそのような生活があることに衝撃受けた戦中に、父の故郷である大分県中津市疎開。親を失った子供たちが駅や神社境内群れる姿を見て保母になることを決意した終戦後1948年昭和23年)、前年開園したばかりの清浄園職員保母)となり、社会福祉という言葉がまだ一般的でなかった時代から、恵まれない子供たち孤児母親務め始めた食糧難時代には、食糧求めて隣町まで大八車を引くこともあり、徳用マッチ行商露天商経験した園児青果市場掃除をして野菜をもらうこともあった。当時の姿は後に「雛鳥に餌をやるツバメにそっくり」と言われた。一方で身内の者は後に「何回やめようか』と言っていたか、わからない」と、浅田苦労ぶりを振り返っている。 1961年昭和36年)には園長就任し園児たち寝食を共にしながら施設の運営続けた園児たちに愛を注ぐ一方卒園後に社会出て適応できるようにと、躾は厳しかった園児には浅田不動明王見えたともいい、卒園者たちの生活にも影響及ぼした。その姿は児童福祉草分けとして社会福祉事業育成寄与したとして評価されており、1983年昭和58年)に勲六等宝冠章受章1992年平成4年)には第26回吉川英治文化賞受賞した晩年になって心臓病売薬ポケット入れ仕事一筋であった卒園者たちの結婚や生活の悩み相談にも乗っていた。1993年10月24日、満81歳で死去。「我が子を持つと子供たちへの愛が薄れる」「愛が散らばれば、この仕事できない」との理由で、生涯独身であった浅田のもとで育った子供たちの数は、最終的に700人以上に昇っていた。常に園児寝つくのを見届ける生活だったため、卒園者や園児たちは、浅田死去初めて彼女の寝顔見たという。

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人物歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/14 21:07 UTC 版)

乾死乃生」の記事における「人物歴」の解説

戦時中に国に尽くしたいとの思いきっかけに、看護婦志した日本赤十字社和歌山支部看護婦養成所卒業し1945年昭和20年)、石川県山中海軍病院従軍看護婦として勤務終戦後帰郷し1946年昭和21年)に南河内郡狭山村三都小学校の教員となったが、医療の道を捨てきれず、1948年昭和23年)に退職大阪府衛生部医務課を経て、翌1949年昭和24年)には大阪府厚生病院勤務大阪市衛生局厚生女学非常勤講師務めた1953年昭和28年)から保健婦として勤務大阪府布施保健所始め、数か所の保健所転勤繰り返した1967年昭和42年)、大阪同和地区対策一環で乾が同和地区検診行ないそれまで蔑ろにされてきた住民たちの劣悪な健康状態発表した。しかし大阪府当局責任を乾に転嫁したため、乾は多く批難浴び中傷圧迫にも遭った。これに対して乾を支持する同和地区住民たちが保健所糾弾した末、大阪府同和地区謝罪する結果となり、乾と同和地区の絆は強いものとなった1969年昭和44年)には大阪府松原保健所管内同和地区常駐保健婦となった。乾はこの同和地区住民たちに愛着抱き、この地区市営住宅一角自宅とし、彼らとともに保健婦活動繰り広げたこうした活動は、後年大阪府松原市における老人介護基礎ともなった1975年昭和50年)に同松原保健所保健婦長となり、1978年昭和53年)に定年退職同年大阪府立羽曳野病院に、特定疾患に関する電話相談請け負う大阪府保険医協会難病相談室設置されたことで、その室長就任業務時間外も自宅夜遅くまで電話相談請け負うなど、難病対策取り組んだ1986年昭和61年)、筋萎縮性側索硬化症患者支援団体ある日ALS協会の設立後、同会の副会長として会長補佐した1989年昭和64年)には、父から譲り受けた自宅を、保健相談室身障者トイレなどを備えたデイケアサービス・ルームに建て替えて「伏山赤鬼園」として地域開放し退職保健婦後輩保健婦理学療法士たちとともにリハビリデイケアボランティア行なった新し地域医療モデルとして注目され開業目指す保健婦看護婦、ほかの自治体保健所担当者ら、多く見学者訪れた著書に、看護学者木下安子との共編による『難病保健活動』(ISBN 978-4-260-36410-2)がある。

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名取マサ」の記事における「人物歴」の解説

裁縫女学校を卒業後1916年大正5年〉に富良野町(後の富良野市)の味噌醤油醸造業者である名取家嫁いだ44歳のときに夫と死別するが、その後も5男4女の子供たちに支えられた。 第二次世界大戦終戦直後私用上京した際、犯罪下働き使われる戦災孤児たちを目にし、孤児たち救いたいとの考え至った1945年昭和20年)、樺太からの引揚者北海道にやって来た際、その孤児たち6人を引き取り自宅実子たちとともに育て始めたその後孤児たち引き取り続けて人数増えたため、町内の古い会館を寮とし、自ら寮母として泊まり込んだ孤児たち増加につれ、政府からの児童養護助成金少なさもあって、次第名取1人の力では無理が生じた名取協力者求め北海道内同様の活動をしている佐野文子松浦カツとともに戦災孤児救済団体として北海道婦人共立愛子会を立ち上げた名取実子たちも母に代って家業引き受けときにはの子供たちの世話をして母を支えた1949年昭和24年)、物資不足解決のために自給自足目指し名取は、富良野町東鳥沼土地鳥沼公園付近)を借り納屋改築して寮とし、1年をかけて山を切り開いて畑とした。地主である鈴木美津江は、戦後厳しさの中での名取子供たち活力心を打たれ死去直前にその土地名取寄付した。寮の運営には鈴木のこの協力大きく鈴木没後には寮の広場鈴木胸像建造されている。この頃名取子供たち日本の子供たち、つまり国の子考え、寮を「国の子寮」と名付けた名取子供たち宗教教育にも必要を感じカトリック富良野教会創立者であるヤヌワリオ・アロイス・メンラド神父依頼し、国の子寮でミサ挙げ多くの子供たちをカトリック信仰に導くことで、1952年昭和27年)の教会開設貢献した。翌1953年昭和28年)のクリスマスには寮母子供たち20名が受洗名取自身も後に受洗した。 寮の創立10年にあたる1955年昭和30年)、名取社会福祉功労者として上川支庁社会福祉協議会より表彰受けた1961年昭和36年)には全国社会福祉協議会からの表彰受けた1954年昭和29年)には昭和天皇皇后が、戦後行幸最後である北海道行幸の際に国の子寮を視察した富良野ではほかに高等学校奉迎が行われたのみで、富良野行幸目的はほとんどが国の子寮の視察にあり、富良野町行幸記録も寮に関する記述大部分占めている。1958年昭和33年)には皇太子明仁が来寮し、皇族訪れた寮として子供たち励みになった1964年昭和39年)末には老朽化した寮に代り近代的な設備備えた鉄筋寮舎完成した。翌1965年昭和40年)にはそれまで名取功績高く評価され富良野市名誉市民第2号選ばれた。1966年昭和41年)には三笠宮一家が寮を訪れピアノ寄付した1967年昭和42年)には勲五等宝冠章受章した1971年死去富良野市の子寮は戦災孤児たちの卒業後も、様々な事情自宅離れた子供たちの生活の場として、名取遺志受け継ぐ人々によって運営続けられている。寮の敷地内には胸像名取マサ女史之像」が建てられている。

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人物歴

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レオノーラ・パイパー」の記事における「人物歴」の解説

ニューハンプシャー州ナシュア育った超常現象関連書籍記録によればパイパー1884年信仰治療師のもとを訪れた際にトランス状態に陥り、インディアンの霊からメッセージを受け、これをきっかけ内輪交霊会開催し始めたという。中でも特に、パイパーが知るはずのない交霊会参加者個人的な秘密告げ能力長けており、このほかに自動書記サイコメトリー能力発揮したという。 ウィリアム・ジェームズ1885年からパイパー交霊会参加し、その能力本物確信したことで、心霊研究の道に入ったという。1887年にはリチャード・ホジソン調査を受け、2年後1889年にはSPR依頼により、ジェームズホジソン調査を受けるためにイギリスへわたったホジソンはかつてブラヴァツキー夫人による神秘現象詐術暴いたことがあり、パイパーに対して当初懐疑的な立場をとっており、周囲からもブラヴァツキー同様にパイパートリック暴くことを期待されていた。しかしパイパー交霊会においてパイパーホジソン亡き旧友の名を名乗り交霊会参加者たちしか知りえないことを語る様子を見、パイパーのもとに旧友の霊が現れたと認め死後生存証拠得た考えたSPR懐疑派代表的人物といえるホジソンが、心霊主義肯定する立場をとってパイパー能力本物認めたことは、SPRにとっては大事件であったこうした実績から、パイパーアメリカ代表する霊媒1人との声もある。同様にパイパー通じて心霊主義支持した学者にはオリバー・ロッジ、ジェームズ・ヒスロップ(英語版)、フレデリック・マイヤースらがいる。 また心霊主義関心持っていたことで知られる作家コナン・ドイルは、1899年パイパートランス状態で「世界各地恐ろしい戦乱生じます」と語ったことを、1914年開戦第一次世界大戦示したことだと著書『The new revelations』で述べており、パイパーダニエル・ダングラス・ホームと並ぶ世界最高級霊媒1人として高く評価している。 ただしSPR初代会長であるヘンリー・シジウィックらは、ホジソン旧友の霊が交霊会参加者について語ったとされる件を、パイパーテレパシー参加者たちの思考読み取ったとの解釈できるなどの理由で(超ESP仮説)、本件心霊主義確固たる証拠認めことはなかった。パイパー支配霊1人フランス人医師の霊とされるが、フランス語をほとんど話すことができず、医学知識もなかったとの批判もある。ホジソンパイパー調査開始した際も、同席していたウィリアム・ジェームズパイパー指導霊と話す際、ジェームズが少しでも流暢なフランス語を話すと、この霊は返答詰まったという。また、ホジソン2人の子供をもうけて長生きする予言したが、これも当たることはなかった。

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