公開実験
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/26 22:15 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動『公開実験』は、2017年にリリースされた3776のLINKモードに基づく3枚のCDであり、同年6月28日にミニアルバム『公開実験《山梨版》』『公開実験《静岡版》』が、8月30日にリミックス・アルバム『公開実験《LINK MIX》』が発売された[1][2] 。
概要
- 2017年5月6日、「公開実験」と名付けられた3776のLINKモード初のライブが、富士川楽座で行われた。LINKモードとは、3776の静岡担当(井出ちよの)と山梨担当(広瀬愛菜-後に退身[3])が、別々の場所で同一のタイトルながら異なるアレンジ・メロディ・歌詞の曲を同時に歌い、場所によっては一体化して聞こえるというライブ形式[4]。『公開実験《山梨版》』『公開実験《静岡版》』はこのときのそれぞれの担当のライブのセットリストを、スタジオで再現したものである[1]。
- 『公開実験《LINK MIX》』は『公開実験《静岡版》』『公開実験《山梨版》』の収録曲を、11人が曲ごとに、「ライブでの聴こえ方の一例」というコンセプトでステレオミックスしたものである[2]。ミックスする人選は、プロデューサーの石田彰によれば、直枝広政・掟ポルシェ・muramasaに声をかけたほかは、基本的に募集して応募のあった全員を採用したということである[5]。
収録曲
- 全作詞・作曲:石田彰
『公開実験《山梨版》』
- 私のものです!《山梨版》
- もうちょっとおやすみ《山梨版》
- 桃としらすの歌《山梨版》
- 見えない《山梨版》
- 私のものです!《山梨版》[Instrumental]
- もうちょっとおやすみ《山梨版》[Instrumental]
- 桃としらすの歌《山梨版》 [Instrumental]
- 見えない《山梨版》 [Instrumental]
『公開実験《静岡版》』
- 私のものです!《静岡版》
- もうちょっとおやすみ《静岡版》
- 桃としらすの歌《静岡版》
- 見えない《静岡版》
- 私のものです!《静岡版》[Instrumental]
- もうちょっとおやすみ《静岡版》[Instrumental]
- 桃としらすの歌《静岡版》 [Instrumental]
- 見えない《静岡版》 [Instrumental]
『公開実験《LINK MIX》』
- 見えない《LINK MIX》Case of イトウヨシノリ
- 桃としらすの歌《LINK MIX》 Case of S.A.L. as ROMANTIC PRODUCTION
- 見えない《LINK MIX》 Case of OTONARISOUND
- もうちょっとおやすみ《LINK MIX》 Case of 西中島きなこ
- 桃としらすの歌《LINK MIX》 Case of ひろし/せまし
- 私のものです!《LINK MIX》 Case of skddj
- 見えない《LINK MIX》 Case of フカヲ
- 私のものです!《LINK MIX》 Case of 直枝政広
- もうちょっとおやすみ《LINK MIX》 Case of 掟ポルシェ
- 桃としらすの歌《LINK MIX》 Case of motan
- 見えない《LINK MIX》 Case of 永田壮一郎
脚注
- ^ a b “「富士山は静岡だけのものじゃない」2人の3776による前代未聞の“公開実験”がCD化 - 音楽ナタリー”. NATALIE (2017年6月28日). 2020年2月2日閲覧。
- ^ a b “直枝政広や掟ポルシェらが“聴こえ方の一例”を提案、3776「公開実験」同時再生アルバム - 音楽ナタリー”. NATALIE (2017年8月30日). 2020年2月2日閲覧。
- ^ “3776の広瀬愛菜が山梨担当を退身、LINKモードは一時休止に - 音楽ナタリー”. NATALIE (2018年3月12日). 2020年2月2日閲覧。
- ^ “【世界初!?】リンクアイドルってなんだ? 3776#4ライブレポート・公開実験編 - miteco. みてきてつながる しぞ~かネット”. miteco (2017年5月30日). 2020年2月2日閲覧。
- ^ “3776LINKモードの構想はいつからあった? 石田Pの考える「アンチ一極集中」とは - miteco. みてきてつながる しぞ~かネット”. miteco (2017年10月11日). 2020年2月2日閲覧。
公開実験
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 00:40 UTC 版)
旧制名古屋大学の工学部出身で、死亡した若山五朗の実兄である石岡繁雄は、実験を繰り返し、1トン以上の抗張力がある直径8 mmナイロン製ロープが、岩壁登攀時には常に存在する鋭角の岩角にかかり、人間の体重程度の重量で引っ張られると、簡単に破断することを突き止めた。 一方、ロープメーカーの東京製綱は、大阪大学工学部教授で日本山岳会関西支部長の篠田軍治の指導により、1955年4月29日、東京製綱蒲郡工場(愛知県蒲郡市)において、山岳関係者・新聞記者らの集まった中で公開実験をした。公開実験前、篠田はロープの原糸メーカーの研究室での実験で、直径8 mmナイロン製ロープが直径12 mmのマニラアサ製ロープに比して鋭角の岩角では20分の1の強さしかないというデータを得て、石岡にも「ナイロンザイルは岩角で切断する。公開実験でもそうなるだろう」と言明した。しかし公開実験の際に、参観者には知らせずに90度の岩角に1 mm、45度の岩角には2 mmの丸みをつけて実験を行った結果、ナイロン製ロープは麻製ロープに比べて数倍も強いという誤りの結果が得られ、そのように報道がなされた。この公開実験以後「岩稜会は自分たちのミスをナイロンザイルのせいにした」という記事が山岳雑誌・化学学会誌で報じられた。 岩稜会側は篠田を名誉毀損罪で1956年(昭和31年)6月告訴(約1年後に不起訴処分)、その約1ヵ月後に岩稜会は310頁のガリ版刷り冊子『ナイロン・ザイル事件』を150部作成、山岳関係者や出版社などに送り、この問題を訴えた。この冊子の存在を知った井上靖は、石岡やパーティの石原國利らから取材して『氷壁』を書き、1956年11月下旬から翌年8月下旬にかけて270回にわたり朝日新聞に連載した。 日本山岳会は1956年版『山日記』に、蒲郡での偽りの公開実験のデータを基にしたナイロン製ロープの強度に関する篠田の記述(10 m垂れ下がったロープの一端に人が結ばれているとして、マニラアサ製では3 mの高さから落とせば切れる恐れがあるが、ナイロンでは13 mまでもつ、など)を掲載した。 岩稜会は「これらの記述は、登山者の生命を危険にさらすことになるので、訂正するべきである。岩角でのナイロンザイルの弱点を明白に認めないと、安全対策は生まれない」との立場から日本山岳会・山岳関係者に問題を提起、訴えを続けたが、日本山岳会からは無視され続けた。 その後もナイロン製ロープの破断事故は相次ぎ、特に1970年6月14日には奥多摩の越沢と利根川源流の高倉山で同日に2件の破断墜落事故が発生している。
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