被爆後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/04/16 08:40 UTC 版)
「NTT西日本十日市ビル」の記事における「被爆後」の解説
1945年(昭和20年)8月6日、深夜に空襲警報があったものの早朝解除され、職員は普通に通勤した。出勤状況は、養成教官3人・事務員1人・挺身隊1人・学徒22人、合計27人。被爆直前である8時15分には、教官や事務員は出勤し仕事の準備に入っていたが、授業が8時半からであるため学徒は半分程度しか来ていなかった。 8時15分、広島市への原子爆弾投下により被爆、爆心地から約1.08kmに位置した。窓は対空爆補強していたが、2階は窓枠もろとも吹き飛ばされ補強壁は破損、3階はちょうど1/4ほど開けており吹き飛ばされ室内の補強壁も破壊された。事務机の一つが真っ二つに割れた。建物自体も火災が上がらず無事で、3階の事務室と養成室に負傷者が集中し女性3人が死亡、機器の大半が破損していた。 中央局・横川従局は壊滅的な打撃を受けたため、同月8日からここに措置局が置かれ電話局の拠点となり、12日中央局が復旧したため移された。同月15日終戦日には中央局で電話の交換業務を再開した。西局自体は設備端子の半数が再利用できると判明したため、翌1946年(昭和21年)1月から改修を行い同年8月には完全再開した。 その後北に2棟が竣工し交換機はそちらへ移り、1981年(昭和56年)1棟は事務所棟として全面改装され現在の外観となった。その後営業所は閉鎖された。 1950年代 広瀬橋西詰から。中央の建物が2棟で右の白い建物が1棟
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