被爆校舎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 06:40 UTC 版)
「活水中学校・高等学校」の記事における「被爆校舎」の解説
現在の校地には太平洋戦争中までは鎮西学院が所在していた。2011年まで使用された本校1号館は、当時原爆投下の被害を受けた後に修復されたものである。同館は1998年に長崎市からBランクの「被爆建造物」に指定されたが、学校側は老朽化と耐震性などを理由として早ければ2011年に取り壊す予定であることが2009年7月に報じられた。 保存を求める声も上がっていたが、長崎市の田上市長は「学校は『できるだけ痕跡が残るような形を検討する』と前向きに考えてくれている」と取り壊しを容認する見解を示した。 上記報道通り2011年に取り壊されることとなり、同年2月に当校舎での最後の卒業式が行われ、7月より取り壊しが開始された。解体工事中の同年9月、敷地内の地下から戦争中の防空壕の遺構が発見された。校舎解体後、跡地はオブジェを配した芝生の広場となり、校舎の外壁の一部が保存されている。解体中に発見された防空壕跡は、安全と費用の両面からの判断で埋め戻されたが、今後その存在を示す予定としている。
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