原子爆弾による被害と被爆校舎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 21:43 UTC 版)
「長崎市立城山小学校」の記事における「原子爆弾による被害と被爆校舎」の解説
全ての座標を示した地図 - OSM全座標を出力 - KML 表示 城山国民学校は爆心地(北緯32度46分24.8秒 東経129度51分47.1秒 / 北緯32.773556度 東経129.863083度 / 32.773556; 129.863083 (原爆落下中心碑))から西に500mの場所に位置していたため原子爆弾により甚大な被害を被った。 原爆投下時、校舎敷地内で事務を行っていた三菱兵器製作所職員、作業を行っていた挺身隊員、学徒報国隊員等158人のうち、生き残ったのは僅か20名であった。また、校長以下の教職員31名と児童約1,400名(全校生徒の八割)が学校または家庭で爆死したと推定される。 校舎は秒速250メートルという猛烈な爆風を受け、開校時からの校舎は東側が3階から崩壊し炎上、新校舎も屋根に大穴が開きその後炎上するなど甚大な被害を受けた。戦後は改修工事を施され、外地からの帰国者専用住宅を経て再び校舎として用いられたが、開校時の校舎は1980年(昭和55年)に、新校舎も1984年(昭和59年)までに後述の階段棟を除き解体された。 現存する被爆当時の校舎は、1937年(昭和12年)に完成した新校舎の丸窓が特徴的な階段棟である(延べ床面積474平方平方メートル)。1984年(昭和59年)に現在の校舎が増築される際に、慰霊会や育友会の働きかけにより保存された。1999年(平成11年)2月には「城山小平和祈念館」として改装され、校舎内には当時の状況を伝える資料などが展示されている。 長崎市が定める「爆建造物等の取扱基準」ではもっとも重要であるAランクが付けられており、2013年1月には長崎県が他の被爆遺構と共に国の登録記念物への登録を求める意見具申書を提出した。 校舎敷地内には平和に関する施設や祈念碑等が数多くあり、観光客や修学旅行生が訪れている。しかし、校舎敷地内の見学には事前申請が必要である。長崎市立城山小学校の公式ウェブサイトに申込の詳細が掲載されている。
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