原子爆弾の投下と終戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 04:12 UTC 版)
1945年(昭和20年)8月6日に広島市への原子爆弾投下が実施され、非戦闘員を含め十数万人が死傷した。8月9日には同様に長崎市への原子爆弾投下が実施され、さらに十数万人の死傷者が出た(以上、日本への原子爆弾投下)。これは、世界初の核兵器による爆撃であった。 日本は、主要な国で当時唯一、日ソ中立条約により交戦国とはなっていなかったソビエト連邦政府の仲介での和平工作を試みたが、ソ連はヤルタ会談での申し合わせに従い8月8日の夜に宣戦布告した(ソ連対日参戦)。翌9日未明からソビエト連邦軍が満洲や朝鮮半島北部、樺太、千島列島に進撃した。満洲では関東軍は総崩れとなり、またこの時にソ連兵による満洲での大規模な略奪行為も頻発するに至った。戦後も長らく解決を見なかった中国残留孤児問題は、この時に生じた。 ソ連の参戦により、講和の望みが絶たれ万策尽きた政府は、8月9日の最高戦争指導会議ではポツダム宣言が要求している日本軍の無条件降伏を問題とせず、「天皇の地位の保障」を条件とする外相案と、それに加え「自主的な武装解除、日本による戦争犯罪人の処罰、占領制限など」の条件を付けよとする軍部案とが対立した。9日深夜に開かれた御前会議でも両案が対立したが、昭和天皇の裁断によって「天皇の地位の保障のみ」を条件に付けることが決定された(昭和天皇自身が地位保障を求めたわけではない)。8月10日に「天皇の国家統治の大権に変更を加うる要求を包含し居らざることの了解の下に」ポツダム宣言を受託するという申し入れをラジオと中立国を介して行われた。 8月14日の御前会議で、いわゆる「聖断」によってポツダム宣言を受諾するとの結論に達した。この決定は翌8月15日、昭和天皇自ら「終戦の詔勅」を音読・録音し、同日正午に日本放送協会のラジオ放送(いわゆる玉音放送)により内地・外地の国民に伝えられた。その2日後の8月17日には鈴木貫太郎内閣は総辞職し東久邇宮内閣(日本の内閣史上、最短政権)が成立する。 「日本の降伏」および「日本の降伏文書」も参照 こうして日本だけでも300万人、関係諸国を入れると2千万人から3千万人(実数不明)の死者を出したと言われる戦争は終わりを告げた。なお、8月15日以降も、千島列島の占守島や南樺太では、ポツダム宣言受諾後に侵攻してきたソ連軍と日本軍守備隊との熾烈な戦闘が行われた。樺太での地上戦が終了したのは、8月23日のことだった。9月2日には、ポツダム宣言に調印し、日本は主権を制限され、連合軍 (GHQ) の占領下となった。またソ連軍の侵攻が終了したのは9月5日である(同日までに北方領土全てが占領される)。
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