長崎市への原子爆弾投下とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 長崎市への原子爆弾投下の意味・解説 

長崎市への原子爆弾投下

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/21 21:48 UTC 版)

座標: 北緯32度46分25.4秒 東経129度51分47.6秒 / 北緯32.773722度 東経129.863222度 / 32.773722; 129.863222[注釈 1]


注釈

  1. ^ 平和公園に置かれている原爆落下中心碑の座標。この地点の上空、高度約500メートルの地点で、原子爆弾ファットマンが爆発した。
  2. ^ アメリカ合衆国連邦政府は、長崎市に投下した原子爆弾のコードネームを「ファットマンFat Man)」と名付けていた。正式名称はMk.3核爆弾。
  3. ^ アメリカ軍の記録による投下時刻は午前10時58分。
  4. ^ 原爆死没者名簿の人数は2009年8月9日現在で14万9266人。
  5. ^ 当時の長崎県知事であった永野若松の証言[3]によると、8月8日夜の警察との会議では、長崎はほとんど無傷に近いので、広島と同じ爆弾が長崎にも落とされるに違いないとの結論が出ていた。翌9日の午前9時前には気象観測機ラッギン・ドラゴンと思われる爆撃機に対する空襲警報も発令された後、爆弾投下直前の10時53分には2機が視認されており、スウィーニーの懸念のように、広島爆撃と同様の状況であることは日本側も察知していた。それにもかかわらず、有効な迎撃手段はとれなかったということになる。
  6. ^ 気象観測機は小倉へはB-29エノラ・ゲイ(ジョージ・マクォート George W. Marquardt 大尉)、長崎へはB-29ラッギン・ドラゴン(チャーリー・マクナイト Charles F. McKnight 大尉)が飛び、計測機としてB-29グレート・アーティストフレデリック・ボック Frederick C. Bock 大尉)、写真撮影機としてB-29ビッグ・スティンク(ジェームス・ホプキンズ James I. Hopkins 中佐)、予備機としてB-29フルハウス(ラルフ・テイラー Ralph R. Taylor 少佐)、爆弾投下機はB-29ボックスカーであった。
  7. ^ これらの機体の愛称は出撃時には機体に描かれていなかったため、唯一人これらの原爆投下作戦の取材許可を得ていた「ニューヨーク・タイムズ」の記者ウィリアム・ローレンスはこの交換のことを知らず、後の記事で「爆弾投下機はスウィーニー少佐の搭乗したグレートアーティスト号」としてしまい、これが原因で戦後しばらくの間は爆弾投下機の名前が間違って伝わることとなった。なおローレンスはこの原爆投下作戦に関する記事で1946年のピューリッツァー賞を受賞している。
  8. ^ なおボックスカーは出撃直前になって後部爆弾倉ブラダの予備タンクの燃料ポンプに故障が見つかり、2000ℓの燃料が使えないままになることが分かった。しかしスウィーニーは修理することは原爆投下作戦の延期に繋がると考え、ぎりぎりで帰還できると見込み、修理はせずに日本時間8月9日午前2時45分に離陸した。
  9. ^ 日本時間8時12分に屋久島に到着。前方120mにボックスカーを発見。ウィリアム・ローレンス、崎川範行訳『0の暁』。しかし、William L. Laurence, “Dawn Over Zero: The Story of the Atomic Bomb” には、「4,000フィート前方」と書かれている。換算すると約1,200mである。
  10. ^ 日本時間8時56分に出発開始。ウィリアム・ローレンス、崎川範行訳『0の暁』
  11. ^ ウィリアム・ローレンス、崎川範行訳『0の暁』には、「21機の日本戦闘機が雲から現われ、われわれに向かって旋回上昇してくるのをみつけた。」と記されている。
  12. ^ 日本時間10時33分に西方約160Kmの長崎へ向かう。ウィリアム・ローレンス、崎川範行訳『0の暁』
  13. ^ レーダーモニター要員のビーザー中尉の回想でもアッシュウォース中佐がレーダー爆撃の命令を出す責任を取ったとしている。一方、スウィーニー少佐の回想ではレーダー(照準)で投下しようと提案したのはスウィーニーであり、アッシュウォース中佐は「わからんな」「精度に自信が持てるか?」と応え、スウィーニーがそれに対し「全責任を負う」と言ったとしている[13]
  14. ^ 軍事用語で「攻撃目標視認」の意。「I have insight」と同義。
  15. ^ 1976年にアメリカ・オークリッジ国立研究所のジョージ・D・カーの推定による数値。
  16. ^ 当初の投下目標は市街地の中心を流れる中島川にかかる常盤橋だった。実際の爆心地一帯は、予定通り当初の目標上空で爆発した場合、被害地域の最北端と試算された場所であった。
  17. ^ 広島原爆投下時と同じく、この落下傘をつけたラジオゾンデを目撃した市民は多く、このことから戦後しばらくの間、原爆は落下傘をつけて投下されたものと考えられていた。
  18. ^ ラジオゾンデは諫早市で回収されたとする資料があるが、これは落下後に同市の海軍士官宿舎に送られたためである。
  19. ^ これらのラジオゾンデには8月6日の広島原爆投下作戦にも同行した物理学者ルイ・アルヴァレらから、旧友である当時東京帝国大学教授であった物理学者嵯峨根遼吉に宛てた手紙が入れられており、原爆の威力について理解できるはずの嵯峨根から日本政府に降伏を働きかけるようにとの勧めが書かれていた。しかし、この手紙が嵯峨根博士に渡ったのは終戦後の9月になってからであった[21]
  20. ^ (原文)"Bombed Nagasaki 090158Z visually with no fighter opposition and no flak. Results 'technically successful' but other factors involved make conference necessary before taking further steps. Visible effects about equal to Hiroshima. Trouble in airplane following delivery requires us to proceed to Okinawa. Fuel only to get to Okinawa."
  21. ^ 広島市への原子爆弾投下時の映像が現像失敗などでほとんど残っていない現在、これは実戦に於いてほぼ唯一の原爆投下の映像である。この映像は1980年(昭和55年)に日本へ提供され、今でもテレビなどで用いられている。
  22. ^ 伊江飛行場とする説もあるが、スウィーニー少佐はその回想記の中では読谷管制塔を呼び出し着陸したとしている[24]
  23. ^ 現在の北九州市八幡東区八幡西区
  24. ^ 現在の中央区博多区と、南区早良区西区の一部のみ。なお、現在でも福岡市は九州最大の人口規模を誇る。
  25. ^ 「長崎原爆戦災誌」の総説編の改訂版に収録共同通信2006年5月20日付 また別証言で佐賀市内の学校でラジオを聞きながら同時刻を迎えた人の手記に、長崎からのラジオの叫び声が11:02に途切れ無音になったというものがある。
  26. ^ 背中から布がぶら下がっていると思いみると皮膚の一部だったという証言がある[34]
  27. ^ 幸運にも生還したオランダ人捕虜レネ・シェーファーは、後に『オランダ兵士長崎被爆記』と題した手記を出版している。この手記では、日本側の捕虜に対する対応が行き届いていたとする証言や、日本軍による連合軍捕虜虐待行為に対し(オランダ人による植民地住民に対する蛮行や、東京大空襲などの連合軍による国際法違反行為を例に出して)、心情に理解を示す記述が多く、本国オランダでの出版は出来ないでいた。その後日本の出版社に直接原稿を持ち込んで日本で最初に出版されたという。[36]
  28. ^ 現存するカルテは「8月12日午前11時50分重症認定」で終わっており、この前後に死亡したと推定されている[37]
  29. ^ 1950年の被爆生存者資料によれば10名確認されている。
  30. ^ 厚生労働省(当時厚生省)では二重被爆の事例を確認していない状態が続き、二重被爆者は広島・長崎どちらかの被爆事例のみを被爆者手帳に記録されるのみであった。2009年3月23日に二重被爆体験者である山口彊(認定当時93歳)が、長崎市から初めてその事実を認定され、被爆者手帳に両市での被爆の事実を追加記述した。広島・長崎両県市では、「把握している限りでは二重被爆の事実を手帳に記述するのは初めて」のことだという[38]
  31. ^ 被爆当日救援列車運行に当たった乗務員の証言によると、最初に救援に入った第311列車(鳥栖駅6時40分発)は途中で15分の遅れが出たため長与駅の到着は11時。出発準備の最中に原爆投下があり、当時長与駅に隣接して設置されていた長崎管理部の職員が同乗して道ノ尾駅まで入ったのが12時頃。被爆者を乗せて13時頃出発し、諫早・大村・川棚の海軍病院に輸送した。この後14時頃に第807列車、16時頃に第317列車、19時頃に第329列車が救援列車として浦上川鉄橋直前まで入った(爆風により橋脚がずれたためこれより先には進めなかった)。さらにもう一本救援列車が運転されたとの話があるが、確認されていない。第311列車が所定のダイヤ通りの運行だと原爆投下時には浦上川鉄橋あたりを走行していたことになるが、途中での遅れのために後続の貨物列車が途中で先行し浦上駅で被爆。乗務員は全員死亡したという。[40]

出典

  1. ^ 長崎原爆資料館 11時2分の表記「投下」から「さく裂」に統一へ
  2. ^ 原爆の威力 | 原爆の惨状 | 長崎の原爆 | 調べる | ながさきの平和【公式】”. ながさきの平和. 2023年8月9日閲覧。
  3. ^ 長崎市編『ナガサキは語りつぐ』40頁。
  4. ^ a b c d e 秦 1978, pp. 29.
  5. ^ チャールズ・W・スウィーニー 黒田剛訳『私はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した』原書房 2000年 222頁
  6. ^ a b c d 秦 1978, pp. 29–30.
  7. ^ 【原爆:投下の日「煙幕」…八幡製鉄所の元従業員が証言】(毎日新聞・2014年7月26日)
  8. ^ a b c 秦 1978, pp. 30.
  9. ^ Dawn Over Zero: The Story of the Atomic Bomb”. Internet Archive. 2022年11月2日閲覧。
  10. ^ 『私はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した』240頁
  11. ^ 秦 1978, pp. 31.
  12. ^ 『私はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した』240-241頁
  13. ^ a b 『私はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した』242頁
  14. ^ a b 11時2分 | 原爆の惨状 | 長崎の原爆 | 調べる | ながさきの平和【公式】”. 長崎市. 2023年12月6日閲覧。
  15. ^ Google Maps – 原子爆弾観測用ラジオゾンデ落下地点(戸石村上川内、現:長崎市川内町) (Map). Cartography by Google, Inc. Google, Inc. 2024年1月23日閲覧
  16. ^ 長崎新聞社 (2001年6月23日). “’’’癒えぬ心の傷’’’  未指定地域の「被爆者」たち 3(ピースサイト関連企画)”. https://www.nagasaki-np.co.jp/. 2024年1月22日閲覧。
  17. ^ Google Maps – 原子爆弾観測用ラジオゾンデ落下地点(田結村補伽、現:諫早市飯盛町平古場) (Map). Cartography by Google, Inc. Google, Inc. 2024年1月23日閲覧
  18. ^ Google Maps – 原子爆弾観測用ラジオゾンデ落下地点(田結村補伽、現:諫早市飯盛町古場)県道138号・田結久山線から案内板を見る。川の奥に小さく案内板が見える。 (Map). Cartography by Google, Inc. Google, Inc. 2024年1月23日閲覧
  19. ^ Google Maps – 原子爆弾観測用ラジオゾンデ落下地点(江の浦村嵩、現:諫早市飯盛町平古場) (Map). Cartography by Google, Inc. Google, Inc. 2024年1月23日閲覧
  20. ^ 碑は訴える, p. 176.
  21. ^ 檜山良昭の閑散余録 「第141回 原爆投下秘話 一通の手紙」 (2007年8月9日 手紙の写真あり)
  22. ^ a b #泰山 P.58
  23. ^ https://web.archive.org/web/20170202145650/http://blogs.yahoo.co.jp/miamasavin/16333828.html
  24. ^ チャールズ・W・スウィーニー 黒田剛訳『私はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した』原書房 2000年 249頁
  25. ^ (2000)"原子力資料集(年表など)_原子力年表_黎明期(1895年~1952年)_1940年~1943年(昭和15年~18年)". 高度情報科学技術研究機構.2016年8月25日閲覧
  26. ^ a b c “幻の原爆開発 科学者が巻き込まれた2つの出来事とは…”. 産経新聞. (2015年8月3日). https://www.sankei.com/article/20150803-SHBXLPLK45M6BPC5LGLFLAXWHE/ 2016年8月26日閲覧。 
  27. ^ Nishina, Y.; Yasaki, T.; Ezoe, H.; Kimura, K.; Ikawa, M. (06 Jul 1940). “Fission Products of Uranium produced by Fast Neutrons”. Nature 146: 24. doi:10.1038/146024a0. https://doi.org/10.1038/146024a0. 
  28. ^ 沢田昭二著第6回 英国生まれの原爆原理.原水爆禁止日本協議会公式サイト
  29. ^ 深井佑造(2011)紀要『技術文化論叢』. 東京工業大学.p.10-11. 2016年8月25日閲覧
  30. ^ Third Atomic Bomb Attack - Japan 1945 Mark Felton Productions
  31. ^ RECNA: REsearch Center for Nuclear Weapons Abolition, NAgasaki University
  32. ^ 「被爆の実相の伝承」のオンライン化・デジタル化事業Webサイト「被爆前の日常アーカイブ」を公開
  33. ^ 調来助・吉澤康雄『医師の証言・長崎原爆体験』東京大学出版会、1982年11月10日。 
  34. ^ a b c #泰山 P.60
  35. ^ #泰山 P.63
  36. ^ 『オランダ兵士長崎被爆記』p165記述より
  37. ^ #泰山 P.41
  38. ^ 二重被爆:長崎市が初認定 健康手帳に「広島」追加」『毎日新聞』、2009年3月24日。オリジナルの2009年4月2日時点におけるアーカイブ。
  39. ^ 『キノコ雲に追われて 二重被爆者9人の証言』あすなろ書房、2010年7月。 
  40. ^ 桐と動輪(14)「原子野に汽笛は響く」壇上完爾、『鉄道ジャーナル』No.82/1979年2月号
  41. ^ #泰山 P.59
  42. ^ "NHKスペシャル 封印された原爆報告書", NHK
  43. ^ "NHKスペシャル 封印された原爆報告書", NHKエンタープライズ
  44. ^ 立体で見る「被爆前後の長崎」 遺構CGで再現 長崎大教授らウェブで公開”. 長崎新聞社. 2022年9月8日閲覧。
  45. ^ 林京子(はやし きょうこ)-芥川賞受賞作家|芥川賞のすべて・のようなもの”. 2020年8月25日閲覧。
  46. ^ NBC長崎放送. “NBC長崎放送ラジオ 番組表 (nbc-radio.jp)”. https://www.nbc-radio.jp/. 2023年7月16日閲覧。
  47. ^ 露崎勇大 (2021年). “長崎は証言する(NBC長崎放送 ラジオ番組)- moonsick”. https://moonsick.jp. 2023年7月16日閲覧。
  48. ^ 長崎新聞社 (2018年10月31日). “ラジオ「長崎は証言する」 被爆者の思い伝え半世紀(長崎新聞)”. 長崎新聞社. 2023年7月17日閲覧。
  49. ^ 天皇陛下、平和への思い強く=「四つの日」一家で黙とう-終戦記念日:時事ドットコム”. www.jiji.com. 2019年12月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年6月23日閲覧。
  50. ^ 戦没者慰霊”. 宮内庁. 2020年6月23日閲覧。



長崎市への原子爆弾投下

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 19:40 UTC 版)

日本の鉄道に関する事件」の記事における「長崎市への原子爆弾投下」の解説

1945年昭和20年8月9日 午前11時2分 アメリカ軍開発した原子爆弾ファットマン」を長崎県長崎市向けて投下し長崎市壊滅させた。 長崎電気軌道もちろんのこと長崎本線大きな被害受けた詳細は「長崎市への原子爆弾投下」を参照

※この「長崎市への原子爆弾投下」の解説は、「日本の鉄道に関する事件」の解説の一部です。
「長崎市への原子爆弾投下」を含む「日本の鉄道に関する事件」の記事については、「日本の鉄道に関する事件」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「長崎市への原子爆弾投下」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「長崎市への原子爆弾投下」の関連用語

長崎市への原子爆弾投下のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



長崎市への原子爆弾投下のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの長崎市への原子爆弾投下 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの日本の鉄道に関する事件 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS