シッタン作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/30 08:15 UTC 版)
シッタン作戦(シッタンさくせん)とは、第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)7月から終戦にかけて、ビルマ戦線において日本軍とイギリス軍の間で行われた戦闘である。日本の第28軍がシッタン川を越えてビルマ東部へ撤退しようとして発生した。日本兵34000人のうち、終戦までにシッタン川東岸の友軍部隊に収容されたのは15000人にとどまり、残りの多数が死亡した。日本側の作戦名は邁作戦(まいさくせん)。また、日本軍が撤退援護のために行ったシッタン川の湾曲部(ベンド)における戦闘をシッタン・ベンド作戦とも呼ぶ[5]。
注釈
- ^ 第28軍作戦主任参謀の福富繁少佐は独断で撤退を計画した理由として、緬甸方面軍司令部がラングーン脱出に際して具体的指導案を示さず参謀派遣も拒否したこと、ペグー山系の食糧事情から長期戦は困難と思われたことを挙げている[10]。
- ^ a b 第55師団は以前に第28軍に属してイラワジデルタに展開していたが、イラワジ会戦末期に師団主力は北上して第33軍の指揮下に移ることになった。その際にイラワジデルタに残置された守備隊が振武兵団であり、第55歩兵団司令部(歩兵団長:長澤貫一少将)、歩兵第143連隊(1個大隊欠)、歩兵第144連隊の2個中隊、騎兵第55連隊の1個小隊、山砲兵第55連隊(2個大隊欠)、輜重兵第55連隊の1個中隊、師団衛生隊の3分の1、防疫給水部の一部、第4野戦病院から成る[11]。
- ^ 第14野戦輸送司令官の清治平少将指揮。輜重兵中隊2個、集成自動車中隊1個、独立自動車大隊1個、独立自動車中隊1個、独立輜重兵大隊1個、野戦道路隊1個、陸上勤務中隊のうち1個小隊から成る[19]。
- ^ 馬場部隊は、歩兵第121連隊(連隊長:馬場進大佐)主力のほか捜索第54連隊第4中隊、野砲兵第54連隊第3大隊、工兵第54連隊の一部から成る[21]。
- ^ 神威部隊は騎兵第55連隊長・杉本泰雄大佐を指揮官とし、5月14日に移動開始時点で騎兵第55連隊主力、歩兵第143連隊第1大隊、山砲兵第55連隊第1大隊その他から成った[27]。
- ^ ラングーン駐屯の第12警備隊等とミャンミャ駐屯の第13警備隊主力から成る連合陸戦隊で、2月18日以降、陸上戦闘について陸軍の緬甸方面軍の指揮下に入ることになっていた。なお、第13根拠地隊のうち田中頼三中将以下の司令部人員は緬甸方面軍司令部と同じくモールメンに先行しており、非戦闘員を含む約400人は魚雷艇・大発動艇などの残存艦艇で海路後退していた[29]。
出典
- ^ a b c d e アレン(1995年)、103-105頁。
- ^ a b c d アレン(1995年)、付録5-6頁。
- ^ a b 防衛庁防衛研修所(1969年)、423頁。
- ^ a b c d e f g h i 防衛庁防衛研修所(1969年)、472-473頁。
- ^ アレン(1995年)、105頁。
- ^ 防衛庁防衛研修所(1969年)、330-331頁。
- ^ 防衛庁防衛研修所(1969年)、312頁。
- ^ 防衛庁防衛研修所(1969年)、270-271頁。
- ^ a b 防衛庁防衛研修所(1969年)、268-269頁。
- ^ 防衛庁防衛研修所(1969年)、273-276頁。
- ^ 防衛庁防衛研修所(1969年)、89頁。
- ^ a b 防衛庁防衛研修所(1969年)、310-311頁。
- ^ a b c 防衛庁防衛研修所(1969年)、356-359頁。
- ^ a b 防衛庁防衛研修所(1969年)、431-432頁。
- ^ アレン(1995年)、96頁。
- ^ a b c d e f g h i j k アレン(1995年)、112-119頁。
- ^ a b 防衛庁防衛研修所(1969年)、376頁。
- ^ アレン(1995年)、75頁。
- ^ a b c 防衛庁防衛研修所(1969年)、429-430頁。
- ^ 防衛庁防衛研修所(1969年)、361頁。
- ^ a b 防衛庁防衛研修所(1969年)、299頁。
- ^ 防衛庁防衛研修所(1969年)、364-365頁。
- ^ 防衛庁防衛研修所(1969年)、440頁。
- ^ 防衛庁防衛研修所(1969年)、299、305頁。
- ^ 防衛庁防衛研修所(1969年)、446-448頁。
- ^ アレン(1995年)、95頁。
- ^ a b 防衛庁防衛研修所(1969年)、377-379頁。
- ^ a b 防衛庁防衛研修所(1969年)、438-439頁。
- ^ 防衛庁防衛研修所(1969年)、353-354頁。
- ^ a b c d 防衛庁防衛研修所(1969年)、450-454頁。
- ^ 防衛庁防衛研修所(1969年)、284-285頁。
- ^ 防衛庁防衛研修所(1969年)、426頁。
- ^ a b c 防衛庁防衛研修所(1969年)、415-417頁。
- ^ a b c 防衛庁防衛研修所(1969年)、409-413頁。
- ^ 防衛庁防衛研修所(1969年)、418-420頁。
- ^ 防衛庁防衛研修所(1969年)、476頁。
- ^ 防衛庁防衛研修所(1969年)、456-457頁。
- ^ 防衛庁防衛研修所(1969年)、459、463頁。
- ^ 防衛庁防衛研修所(1969年)、469-470頁。
- ^ 防衛庁防衛研修所(1969年)、471頁。
- ^ 防衛庁防衛研修所(1969年)、479頁。
- ^ a b 防衛庁防衛研修所(1969年)、481頁。
- ^ 防衛庁防衛研修所(1969年)、478頁。
- ^ アレン(1995年)、128頁。
- ^ a b 防衛庁防衛研修所(1969年)、483頁。
- 1 シッタン作戦とは
- 2 シッタン作戦の概要
- 3 結果
- 4 参考文献
シッタン作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 02:15 UTC 版)
詳細は「シッタン作戦」を参照 第28軍は、イギリス軍のラングーンへの急進撃により、退路を絶たれペグー山系(英語版)に追い詰められていた。ペグー山系はイラワジ川とシッタン川とに挟まれた標高500メートル内外の丘陵地帯で、竹林に覆われている。雨季が到来し、イギリス軍の作戦行動は不活発となっていたが、第28軍の食糧の手持ちは7月末が限界となっていた。将兵は竹の小屋で雨をしのぎ、筍粥で飢えをしのいだが、食塩の欠乏症に苦しんだ。食塩が欠乏すると、筋力が低下し、しまいには立っていられなくなるのである。 7月、雨季は最盛期に入り、河川は氾濫し、平地は沼地に変わった。ようやく兵力の集結を終えた第28軍は敵中突破作戦を計画した。闇にまぎれてペグー山系を脱出し、広大な冠水地帯を横断し、増水したシッタン川を竹の筏で渡るのである。シッタン川を防御していた第33軍は川を越えて第7インド師団へ牽制攻撃をかけた。戦いは胸の高さまで達する泥水の中で行われた。 7月下旬、第28軍は十数個の突破縦隊に分かれて一斉にシッタン川を目指した。将兵は筏に身を託して濁流へ身を投じた。体力の衰えていた者は濁流を乗り切ることができず、水勢に呑まれて流されていった。第28軍は34,000名をもってペグー山系に入ったが、シッタン川を突破できた者は15,000名に過ぎなかった。こうして第28軍が敵中突破を大きな犠牲を払いつつ成功させた頃、8月15日の終戦が訪れた。
※この「シッタン作戦」の解説は、「ビルマの戦い」の解説の一部です。
「シッタン作戦」を含む「ビルマの戦い」の記事については、「ビルマの戦い」の概要を参照ください。
- シッタン作戦のページへのリンク