ビルマでのその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 14:06 UTC 版)
インパール作戦後に第54師団長となった宮崎は、1945年4月にイラワジ河下流付近で防衛戦を展開した。しかし突如上級部隊であるビルマ方面軍の司令官木村兵太郎大将が司令部を放棄し逃亡したため、指揮系統を失った宮崎師団は敵中に完全に孤立する事態になった。殲滅される寸前で重装備を放棄してペグー山系の竹林に逃げ込んだものの、第54師団は補給や連絡が途絶えて今度は全軍餓死の危機に瀕してしまった。そこで7月下旬やむにやまれず分散して敵中突破を試みたものの将兵の多くが死亡、目的地のシッタン河東岸までたどり着いたのは半数以下であった(シッタン作戦)。宮崎はそこでも粘り強く防衛戦を展開して、ジュウエジンで終戦を迎えた。 その後ビルマの収容所に収容され、イギリス軍の捕虜となっていた時には、部下が不当な扱いを受けても決して泣き寝入りすることなく、その都度イギリス軍に対し厳重な抗議を行って部下を守った。戦いを終えて捕虜となっても、宮崎は指揮官としての義務を決して放棄しなかった。1947年5月に帰国した。
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