ビルマでの反共軍事活動
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1950年(民国39年)1月、李弥はいったん台湾に逃れたが、同年9月、再び中国・ビルマ連邦国境に戻る。そして残存していた国民党部隊を再編して「反共抗俄救国軍滇南辺区遊撃第1縦隊」を組織、さらに雲南省政府主席兼雲南綏靖公署主任に任ぜられた。この部隊はアメリカの支援も受けており、後に「雲南反共救国軍遊撃総部」、「東南亜自由人民反共聯軍」などと改称している。 しかしビルマ連邦政府は、ビルマ連邦領北部を根拠地とした李弥とその部隊の活動に激怒し、ビルマ国軍を動員して掃討作戦を開始した。李も反政府勢力と手を結んで反撃し、台湾・ビルマ関係、アメリカ・ビルマ関係の悪化も含めて事態は泥沼化してしまう。結局、ビルマ連邦政府が国際連合でこの問題を取り上げようとし、李にとっても戦況が不利となったため、ついに1953年(民国42年)12月から李とその部隊は台湾への撤退を余儀なくされている。この撤退は1954年(民国43年)に完了し、翌年、李も台湾に引上げた(ただし部隊の一部は、そのままビルマに残留した)。台湾に戻った李は、三軍連合大学や国防研究院で訓練を受けている。後に国民大会代表や国民党第7期中央委員候補、第8期中央委員、第9期・10期中央評議委員などを務めた。 1973年(民国62年)12月7日、台北市で心臓病のために死去。享年72。
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