ビルマのミッチーナーでの慰安婦の状況(米軍報告書による)
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「日本の慰安婦」の記事における「ビルマのミッチーナーでの慰安婦の状況(米軍報告書による)」の解説
詳細は「日本人戦争捕虜尋問レポート No.49」を参照 英語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。Japanese Prisoner of War Interrogation Report 49 1944年9月にインドのレドで作成された日本人戦争捕虜尋問レポート No.49では、ビルマの戦いのミッチーナー陥落後の掃討作戦において捕獲された慰安所経営者の日本人夫婦及び朝鮮人慰安婦20名に対する尋問内容が記録されている。この報告では「慰安婦」とは日本軍に特有の用語で、軍人のために軍に所属させられた売春婦は内容の正確な説明がなされないままに勧誘されたこと、署名による契約で前借金数百円が与えられたこと(ただし、この前借金には現地に行くまでの旅費だけでなく、到着まで場合によっては数段階にわたって仲介業者が入っており、これらの業者への仲介料も女性への前借金ということにされているのが典型的な手口であったが、米軍や慰安婦自身がそのことをどこまで理解していたかは不明である)、応募した女性には娼婦もいたことや、ミッチーナでの生活環境は買い物や外出などが可能で、比較的良好であり、将兵と共にスポーツ、ピクニック、娯楽、社交ディナー等、蓄音機も楽しんだこと。慰安婦らは個室を与えられ、接客を断る自由もあり、軍人が泥酔していた時には断ることもしばしばあったこと。避妊用具が支給され、軍医による週1回検診などで彼女らの健康状態は良く、日本軍人と結婚した者もいたこと、慰安所経営者は借金額に応じて彼女らの総収入の40 - 60%を受け取っていたこと。彼女らは月平均で1500円の総収益を上げ、750円を経営者に返済していたこと、(但し後の米軍ATISの調査報告書No.120 1945/11/15 では慰安婦の売り上げ(gross)は最高1500円、最低300円/月で慰安婦は経営者に最低150円/月は支払わなければならなかったとの証言記録がある)(当時の日本兵の月給は二等兵で6円、少尉で70円、大将で550円)。彼女達は十分なお金を持ち、衣服、化粧品、タバコといった嗜好品を購入できたこと。一方で、経営者は食事や品物に高値を付け、彼女らの生活を厳しいものにしたといったこと。日本軍が借金を返済した慰安婦は帰国することができるようにせよとの命令書を発行したために一部の慰安婦は帰国を許されたことが記録されている。[要出典] ただし、これらは、かなりの部分が経営者側に対する取材により、その言をそのまま採録した部分も大きく、とくに経営者側に有利な調査内容の部分についてはどこまで信用できるか疑問があるともされる。[要出典] また、稼いだとされる金銭についても、実際には当時ビルマでは日本からは物資の供給能力がろくにないまま、日本側の必要物資を軍票で徴発したため、1945年春段階で物価が戦前の127倍、戦争末期には1856倍(ラングーンのケース)になっており、日本兵が貨幣として持つ軍票では事実上ものが殆ど買えなくなっていたため、比較的軍票を多く持つ士官らがそれでも慰安婦を多少なりとも喜ばせるため、気軽にチップとして余計に渡したとされるそのため、表面的にこのような額になったに過ぎないとされる。(近年の米側の研究ではこれが常識になっているという見解もある。)[要出典] また、慰安婦は故郷に送金することは可能であったが、地域や時期によって扱いは異なるものの、現地でのインフレ影響を遮断するため、原則として母国への送金や引出しは極めて制限されていた。京大の東アジア研究センターの研究によれば、まず現地通貨での強制預金の必要があり、母国送金できるのはその1/69、引出・利用は本人が母国に戻ってきてから本人のみが出来ることに限られていた例が報告されている。(つまり、今の金額でいえば、数年かけて1億円稼いでも実際に本人が手に出来るのは145万円に過ぎない。また、これらのシステムは、行政側としてはインフレの問題も何もかも初めから分かって、というより、寧ろ分かっているからこそ意図的にその効果を狙って制度設計をしたものである。)
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