シッタン川渡河とは? わかりやすく解説

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シッタン川渡河

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 01:28 UTC 版)

シッタン作戦」の記事における「シッタン川渡河」の解説

7月20日日本軍第28軍シッタン川向かって前進開始した。その渡河地点北から順に、トングー南方第54師団木庭支隊支隊長:第54歩兵団長木庭知時少将)、ピユ北方第54師団主力木庭支隊合わせて12000人)、ピユ南方干城兵団第28軍直属部隊主力小計9500人)、キャウキ付近で振武兵団8000人)、ニュアンレビン付近で独混第105旅団第28軍直属部隊一部小計4500人)と定められていた。参加兵力カッコ書きのとおり総計34000人の予定7月2日時点電文報告されているが、作戦直後8月10日時点では渡河前の兵力25000人とも報告されている。中島重大隊の15cm榴弾砲など重装備破棄された。渡河資材各人山中から携行してきた竹を組んだ筏や、現地住民から徴発したわずかな小舟しかなかった。シッタン川本流に至る手前クン川でもによる増水川幅100m超えていたが、大綱かろうじて張って筏を運行するなどして渡ったシッタン川手前マンダレー街道越え辺りからイギリス軍の攻撃激しくなり、日本軍損害続出した湿地帯のため、砲撃避けるための壕を掘ることもできなかった。日本軍は、空襲砲撃避けるため夜間に、増水したシッタン川1人から数人ずつで小さな筏を押しながら泳ぎ渡ったが、多数溺死した第28軍主力では、司令部前方を行く神威部隊シッタン川手前戦闘となり7月23日部隊長杉本雄大佐が戦死したため、軍司令部針路変えて縦隊とともに7月28日シッタン川渡った第54師団では左縦隊連隊長連隊長代理3人が次々と戦死して分裂状態陥ったが、木庭支隊含め7月23-27日にシッタン川渡河した。振武集団途中湿地帯前進妨げられ7月30日-8月13日にようやく渡河終えた。独混第105旅団左右中央の3個縦隊前進したうち、左右縦隊マンダレー街道付近戦闘多数戦死者出し7月26日ころまでかかって渡河終えた。 第13警備隊司令深見雄大率い海軍陸戦隊650人は、前述のように独混第105旅団長指揮下で渡河するはずであったが、なぜか集合命令従わず連絡絶ち単独行動を採った。第28軍部隊後れてシッタン渡河目指したが、戦闘病気多数落伍者出し8月7-8日にシッタン川西岸イギリス軍2個大隊包囲殲滅された。渡河成功した生存者は8人だけであった

※この「シッタン川渡河」の解説は、「シッタン作戦」の解説の一部です。
「シッタン川渡河」を含む「シッタン作戦」の記事については、「シッタン作戦」の概要を参照ください。

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