シッタン・ベンド等における牽制攻撃
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「シッタン作戦」の記事における「シッタン・ベンド等における牽制攻撃」の解説
6月25日、日本の第33軍はシッタン川河口東岸で再編成と沿岸防備を実行中であったが、麾下の第53師団と第18師団にシッタン川西岸への牽制攻撃を命じた。第33軍と第28軍の間で無線は不通のため、将校斥候によってかろうじて連絡が行われ、7月20日の渡河に先立つ7月3日に牽制攻撃が開始されることになった。投入兵力は、第18師団が1000人、第53師団が2000人であった。 7月1日、日本の第53師団は、折畳舟8隻・ゴムボート・現地民間船でシッタン川を渡河した。西岸で態勢を整えると、7月3日にミイトキョーを目標に進撃を開始し、7月8日にミイトキョーとボンパンアウクの各集落を攻略した。ミイトキョーにいたイギリス軍の第7インド師団第89旅団の部隊は同地確保は犠牲が大きいと判断して一時後退し、第6グルカ連隊第3大隊と第4軍団手持ちの全航空兵力で反撃を行った。7月9日には歩兵第128連隊長の菊池芳之助大佐が戦死した。7月10日、日本の第53師団は第一次目標達成と判断して一部を残してシッタン川東岸に撤収した。その後、第53師団はシッタン川東岸で第28軍将兵の収容準備に当てられ、ミイトキョー地区での戦闘はなかった。 一方の第18師団は第53師団の南方河口寄りで、7月3日未明に師団主力(歩兵第55連隊・歩兵第56連隊と配属砲兵2個中隊等)が、折畳舟11隻・ゴムボート・現地民間船でシッタン川を渡河した。第18師団右翼の歩兵第55連隊はサトワジョン付近を占領してアビヤ=ニャンカシ(ニャウンカシュ)間の鉄道線を遮断し、左翼の歩兵第56連隊はニャンカシ駅周辺に駐屯する第7インド師団第89旅団の第8グルカ連隊第4大隊を攻撃したが苦戦した。7月7日に中永太郎第18師団長は攻撃中止を命じて2個大隊を残して東岸に撤退したが、同日にイギリス軍もニャンカシが孤立状態となったため第8グルカ連隊第4大隊をサトワジョン方面に退却させた。ニャンカシ撤退に際して、第7インド師団砲兵はQF 25ポンド砲3門放棄という初めての火砲損失を出した。日本の第18師団はニャンカシを占領後、第33軍の命令に基づいて7月26日からサトワジョン付近からアビヤ方面に攻撃を再開し、7月30日にアビヤ駅周辺で大火災発生と報じた。他方、イギリス軍の記録によると、日本軍は8月2日にサトワジョンを1日だけ占領して引き上げたとしている。 シャン高原に第56師団を基幹とする鳳集団(集団長:松山祐三中将)も、6月28日から歩兵第113連隊に命じてトングー方面へ斬込隊を出撃させて、第28軍の渡河作戦に呼応した。しかし、多少の戦果はあったものの大きな牽制効果は得られなかった。
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