渡河後の行動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 01:28 UTC 版)
渡河に成功した第28軍の将兵は、シッタン川東岸を南下してビリン経由でテナセリウム地区(現タニンダーリ地方域)を目指して行軍を続けた。第54師団(木庭支隊を含む)だけは、シッタン川岸を南下するのではなく、東進してシャン高原を横断してパプン経由でテナセリウム地区に進む計画であった。しかし、第54師団はシャン高原の密林に阻まれて道に迷い、また多くの裸足の将兵の苦痛は激しく、8月15日頃にシャン高原横断は断念された。渡河で体力を消耗した将兵は東岸の友軍部隊に収容されるまでの間に、落伍者、自決者多数を生じた。第28軍参謀の土屋英一中佐は、シッタン川渡河で最後の難関を越えたという安堵感から宿営地に残ってそのまま死んでしまう将兵が多く、沿道には数多くの死体が残されて「屍臭の道」になっていたと述べている。 シッタン川東岸の第33軍は、第53師団にシッタン川支流のシュエジン川・マダマ川渡河点を確保させて、第28軍将兵の収容に当たらせた。また、第56師団もシャン高原への誘導要員を第54師団に対する迎えとして派遣したが、第54師団が上述のとおりシャン高原進入を断念して川沿いに南下したため、ほとんど役に立たなかった。 桜井軍司令官以下の第28軍司令部は、8月2日まで渡河点に近いミガンギャンに留まって諸隊の情報収集の後、南下して8月9日にシュエジンで第53師団に収容された。その後、第28軍司令部は8月15日に第53師団司令部に到達し、同日に南方軍と緬甸方面軍から作戦成功の祝電と終戦の詔書公布を知らされた。第54師団は終戦を知らないまま東岸の南下を続けていたが、8月23日に第28軍から停戦命令を受領した。8月初旬に宮崎第54師団長が掌握できていた兵力は、ペグー山系出発時の9000人以上のうち4000人以下であった。振武兵団は特に司令部の渡河が遅れて8月15日から数日かけてようやく部隊の把握に成功、南下中に終戦を迎えた。独混第105旅団は8月3日にシュエジン川を渡って収容されたが、出発時の人員3400人が2200人に減っていた。8月15日の終戦後も第28軍の多くは状況を知らないまま南下中で、ほとんど通信手段を持たないことから、停戦命令が容易には徹底されなかった。
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