天号作戦
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天号作戦(てんごうさくせん)は、第二次世界大戦、太平洋戦争末期における日本軍の作戦計画。
計画内容
天号作戦は、捷号作戦挫折後の1945年春、連合国軍の日本本土侵攻に対し、本土防衛作戦の一環として本土前縁で戦われた航空作戦である[1]。
連合艦隊発令のGF電令作第五六四A号(3月17日発令)では「敵攻略部隊南西諸島方面に来攻せば陸軍と緊密に協同し連合艦隊の全力を挙げてこれを撃滅し南西諸島を確保せんとす」と示して各部隊に作戦を指示し、「本作戦を「天一号作戦」と呼称し 之が警戒並に発動要領は捷号作戦に準じ本職之を下令す」とした[2]。
大本営発令の大海指第五一三号別紙(3月20日発令)の作戦指導の大綱では、「陸軍と密に協力し 当面作戦の重点を東支那海周辺特に南西諸島に指向し 特に航空兵力の徹底集中並に局地防衛の緊急強化を計り 来攻する敵主力の撃滅を期す」と指示し、「本作戦ヲ天号作戦ト呼称ス」としている。また、「天号作戦に於いては 先ず航空兵力の大挙特攻々撃を以て敵機動部隊に痛撃を加へ 次で来攻する敵船団を洋上及び水際に捕捉し 各種特攻兵力の集中攻撃により其の大部を撃破するを目途とし 尚上陸せる敵に対しては 靭強なる地上作戦を以て飽く迄敵の航空基地占領を阻止し 以て航空作戦の完遂を容易ならしめ相俟て作戦目的を達成す」と指示している[3]。
この作戦の特質については、様々な異なる観察がなされており、また経過とともに変化がみられる[1]。陸軍と海軍で考えに相違があり、陸軍では、天号作戦を本土を中核とする総合的作戦計画の一部とみなし、陸海軍の航空戦力で敵の攻略船団を攻撃し、米軍の進攻を遅滞させて本土決戦準備の完成のため時間を稼ぎたいという考えであったが、米軍の進攻挫折の確算はなく、その後の本土決戦の備えや防空にある程度兵力を控置した。海軍では、沖縄を失えば本土決戦は成り立たないと考え、沖縄戦を今次戦争の決戦になると考えていた[4]。
捷号作戦後の次期作戦計画は1945年1月20日の「帝国陸海軍作戦計画大綱」であり、2月6日の「天号作戦計画」はその第一着手であった。大綱の主眼は、本土の前縁付近で敵に大打撃を与え、その要域を確保して敵の継戦意志を破砕しようとすることにあった。当時の大本営の敵情判断は比島攻略後の連合国軍は一挙に本土上陸することなく、その前に一、二段の基地推進を行うと考え、その主要な方面は東シナ海周辺地域であり、とりわけ南西諸島沖縄地区が目標となる公算が大きいと判断した。この基地推進に日本の乗ずる重要な戦機があり、敵を補足して大打撃を与えて本土を中核とする全般作戦に寄与することが目的であった[1]。
歴史
1944年末から始まった捷一号作戦で作戦可能の航空兵力の大半を失い、その再建も進まず、この状況で東シナ海周辺に連合国軍の来攻があった場合、その阻止のために大規模な航空戦を行うか、目をつぶって航空兵力の再建に努めて連合国軍の本土上陸に備えるかについて陸海軍で意見が分かれ、海軍は沖縄方面を最後の決戦と考えて航空戦力の錬成上から1945年5月ころまで我慢して逐次投入を避けるべきとし、陸軍は本土決戦準備の時間を稼ぐために陸海軍の総合航空戦力で米軍の進攻に応戦して遅滞させようとした[5]。
1945年1月20日、陸海軍大本営総長は「帝国陸海軍作戦計画大綱」を上奏し、裁可を得た[6]。陸軍大本営参謀本部はこれに基づき、「進攻する敵特に主敵米軍を撃破して皇土を中核とする国防要域を確保し以て敵の戦意を破砕する」という方針を全軍に明示した。そのため、対ソ、重慶軍作戦を使命にしてきた朝鮮軍及びシナ派遣軍の任務も対米に転換させ、南方軍は大陸方面に向かう連合軍の進攻を控制し、全軍の作戦を容易にするため持久任務に切り替え、1月22日から2月6日にわたり各軍に大命を逐次発令した[7]。2月6日、陸軍部は第10方面軍司令官ほか各総司令官に対し、「敵の東シナ海周辺地域来攻に当たり、その隷下航空部隊を他軍司令官の指揮下に入らしむる」と発令し、大陸指第2382号により「航空作戦に関する陸海軍中央協定研究案」と「東支那海周辺地域に於ける航空作戦指導要領」を示達した。この研究案は海軍との調整を十分に尽くさずに参考として指示したもので、作戦指導要領で航空作戦を「天号航空作戦」と呼称することに決定した[8]。
1月20日、海軍側は「帝国陸海軍作戦計画大綱」に基づく命令として大海令37号を発令し、その内容は大綱そのままのものであり、この段階で航空作戦に関する示達はなく、陸海軍間の調整を終えた3月1日にこれを示達した[9]。 1945年3月17日、連合艦隊はGF電令作第五六四A号により「天一号作戦」を発令した[2]。19日の段階では、次の決戦方面について、大本営陸軍参謀本部では敵の上陸方面を台湾の算大とし、大本営海軍軍令部では敵の通信情報から小笠原方面の算大としていたが、20日には陸海軍ともに次は南西諸島との判断を強くした[10]。20日、軍令部は大海指第五一三号を発令し、別紙において作戦指導の大綱で天号作戦を指示しており、当面作戦の重点を南西諸島正面に指向し、航空兵力の集中を計って来攻する敵主力を撃滅する方針を示した。この方針は軍令部が沖縄航空決戦の決意を現しているとする意見もある[3]。3月25日18時18分、連合艦隊は「天一号作戦警戒」を発令[11]。26日11時2分、連合艦隊は「天一号作戦発動」を発令[12]。
日本の第五航空艦隊の兵力整頓中に連合国軍の上陸があって本格的航空攻撃もできないまま、連合国軍に飛行場を使用され始めた。4月3日、軍令部、連合艦隊、現地部隊で作戦打ち合わせが行われ、軍令部が連合艦隊の航空攻撃の強化を求め、「航空部隊の全力を以て、戦局打開の一大決戦を決行する要あり」との結論に至り、この結論に基づき、第五航空艦隊長官宇垣纏中将は3日に作戦要領を発令した。本作戦は「菊水一号作戦」と呼称された[13]。菊水作戦は日本海軍の第一機動基地航空部隊(第三、第五、第十航空艦隊)によって沖縄に来攻する連合国軍に対し、特攻攻撃を加えた作戦で、4月6日の一号から6月22日の十号まで行われた。これに策応し、海軍の第一航空艦隊や陸軍の第六航空軍、初期には第八飛行師団も総攻撃を行った[14]。
出典
- ^ a b c 戦史叢書36 沖縄・台湾・硫黄島方面陸軍航空作戦 287頁
- ^ a b 戦史叢書93 大本営海軍部・聯合艦隊<7>戦争最終期 258-259頁
- ^ a b 戦史叢書93 大本営海軍部・聯合艦隊<7>戦争最終期 257頁
- ^ 戦史叢書17 沖縄方面海軍作戦 163頁
- ^ 戦史叢書17 沖縄方面海軍作戦 149-150頁
- ^ 戦史叢書82 大本営陸軍部<10>昭和二十年八月まで 9頁
- ^ 戦史叢書82 大本営陸軍部<10>昭和二十年八月まで 14頁
- ^ 戦史叢書82 大本営陸軍部<10>昭和二十年八月まで 15頁
- ^ 戦史叢書82 大本営陸軍部<10>昭和二十年八月まで 15-16頁
- ^ 戦史叢書93 大本営海軍部・聯合艦隊<7>戦争最終期 263頁
- ^ 戦史叢書93 大本営海軍部・聯合艦隊<7>戦争最終期 264頁
- ^ 戦史叢書93 大本営海軍部・聯合艦隊<7>戦争最終期 265頁
- ^ 戦史叢書93 大本営海軍部・聯合艦隊<7>戦争最終期 270頁
- ^ 戦史叢書17 沖縄方面海軍作戦 360頁
関連項目
天号作戦
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詳細は「菊水作戦」を参照 1945年3月26日、連合軍が慶良間諸島に上陸を開始し沖縄戦が開始されると、3月30日と31日に美濃部は、芙蓉部隊のうちで熟練した隊員らを零戦15機と彗星25機とともに、鹿児島県鹿屋基地へ進出させた。藤枝基地でも経験の浅い搭乗員らの訓練を行い随時要員を交代させて攻撃の継続を可能にした。美濃部の任務に対する姿勢は非常に厳格であり、菊水作戦発令前の偵察任務で、彗星に搭乗していた偵察員鈴木昌康中尉が潜水艦らしき艦影を発見し、操縦員の坪井飛長に接近を命じたところ、退避する様子もなかったため、味方艦と判断し帰投した。その報告を聞いた美濃部は烈火のごとく怒り、「ばかもの!この時期に味方の艦艇がうろうろしているわけがない、敵に決まっている」と決めつけ「なぜ接近して機銃でも撃ちこまん」と激しく叱責した。鈴木はこの日が初陣であったのにも拘わらず洋上航法は狂いもなく正確で、操縦していた坪井は鈴木の優れた素質に感心するとともに、何の落ち度もなく無事に帰投できたのに、美濃部に罵倒されて「えっ、何で!?」と戸惑っている。美濃部はこの叱責を江田島兵学校出の士官に対する躾けであったとしているが、鈴木はのちの出撃で、この時の叱責を気にして戦場に深入りし未帰還となっている また、不調で引き返した機体については、美濃部が自らエンジン音を確かめて不調ではないと判断すると、すっかりと陽がのぼっていたのにもかかわらず再出撃を命じている。その機は無事に帰還することができたが、その搭乗員は後に「あのときほど指揮官(美濃部)がうらめしく、怖かったことはない」と述べている。美濃部の任務に対する厳正な姿勢もあり、芙蓉部隊の損害は他の通常攻撃の部隊より大きいものとなったとする意見もある。ただし戦死した隊員の遺族には気を使っており、1945年4月12日の出撃で戦死した清原喜義上飛曹の父親より戦死の状況について問い合わせがあったときには、自ら長文の詳細を記述した手紙をしたため父親に送っている。この手紙は戦後に遺族から土浦駐屯地内にある予科練記念館「雄翔館」に寄贈されて今も展示されている。 沖縄戦で芙蓉部隊は第5航空艦隊の命令によって、敵飛行場、敵艦隊に対する夜間攻撃、敵艦隊の索敵などの多様な任務をこなしたが、特に菊水二号作戦以降は、特攻援護のため陸軍航空隊第6航空軍の重爆撃機と協力しての敵飛行場夜間攻撃が主任務となった。アメリカ軍飛行場は強力な対空砲火と、レーダー搭載の夜間戦闘機F6F-5N“ヘルキャット”とP-61“ブラックウィドー”などの夜間戦闘機により固く守られており、特に対空砲火が最大の障害となった。美濃部が考えた敵航空基地への攻撃法は、「夜間、黎明に超低空で敵基地に接近、零戦は機銃で敵地上機を掃射し、彗星は超低空から三式一番二八号ロケット爆弾などを使用した必中爆撃」であり、菊水作戦開始当初はこれに基づいて、零戦や彗星が低空飛行での精密攻撃を行っていたが、激烈なアメリカ軍航空基地の対空砲火で多大な損害を被ったことにより、大幅な作戦変更に追い込まれた。美濃部がソロモンで夜襲部隊の構想を抱いてからもっともこだわってきた零戦夜間戦闘機による敵航空基地への夜襲は、損害ばかりが増えて効果は乏しかったため断念し、彗星による爆撃も、敵対空砲火が濃密な高度2,000m以下での精密爆撃を諦めて、高度4,000mで敵航空基地に接近後緩降下し、高度3,000mで投弾するという戦術に切り替えざるを得なかった。急降下爆撃の投弾高度については、日本海軍は様々な実験で導かれた「800m以上(の投弾)にては命中率著しく低下する」という急降下爆撃の投弾高度の分析で、急降下爆撃基準投下高度を700mと定め、さらに太平洋戦争に突入すると、それまでの戦訓により「高度2,000mから角度45度以上の急降下で突入、高度400mで投弾」とさらに投弾高度を引き下げており、芙蓉部隊の投弾高度3,000mでは明らかに高すぎて効果的な爆撃は望むべくもなかった。芙蓉部隊は主要兵装として海軍中央の反対を押し切ってまで採用した、命中率が高い三式一番二八号ロケット爆弾も射程500mに過ぎず、使用できなくなっている。超低空からの必中攻撃で多くの未帰還機を出した4月中と比べると、3,000mからの爆撃が主となった5月以降は、芙蓉部隊機の出撃機数に対する損失率は減少しており、美濃部の対策が奏功することとなったが、逆に戦果報告も具体性を欠くものが多くなっている。
※この「天号作戦」の解説は、「美濃部正」の解説の一部です。
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