ブーゲンビル島の戦い
ブーゲンビル島の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 14:09 UTC 版)
「ラバウル航空隊」の記事における「ブーゲンビル島の戦い」の解説
1943年7月中旬、2航戦の全機がラバウル経由でブインへ進出。28日、陸軍は航空軍たる第4航空軍を編成、ラバウルの陸軍航空部隊はニューギニア攻防・反撃のため両面作戦に入る。 主に飛行第68戦隊、飛行第78戦隊(共に三式戦装備)からなる陸軍の第14飛行団(団長寺西多美弥中佐)がウエワクとの間を移動・往来。以後、ニューギニア島東南部および海峡を越えたニューブリテン島南西のツルブ、マーカス岬の両方面を担当。12月、第68戦隊は爆撃隊とともに海峡を越えマーカス岬の防衛のために出動を継続。8月16日-17日、第14飛行団が基地とするニューギニア島中央のウエワクが連合軍の奇襲を受け、100機が地上破壊される。一時期作戦続行困難に陥り、以後完全守勢となる。 9月1日、251空は消耗により解散し、搭乗員は201空と253空へ転属。9月中旬、中部ソロモン・ニュージョージア島ムンダ基地放棄。9月、ニューギニア島東南、サラモア・ラエ相次いで陥落、地上軍は死のサラワケット越えでキアリへ脱出。連合軍はこの地域に11月までに10か所以上の飛行場を建設。10月から翌1944年(昭和19年)1月まで、ニューギニア島・フィッシュハーフェン戦を継続。10月、北部ソロモン・ブーゲンビル島南端のブイン基地を放棄脱出。ラバウル帰還命令を発する。27日、ブーゲンビル島南端の第九三八海軍航空隊水上基地に隣接するモノ島を米軍が占領。 11月1日、日本海軍は「ろ号作戦」を発動。11月1日 - 13日のろ号作戦中「翔鶴」 「瑞鶴」「瑞鳳」飛行隊からなる第一航空戦隊はラバウルに進出。作戦終了時半数を消耗し一部を残し引上げた。ろ号作戦でラバウルにきた1航戦の戦闘機隊は、撃墜マークも桜の花や星マーク、思い思いに記しており、204空でも機体個体の撃墜記録として、前任者の記録に自らの戦果を追加記入して士気を上げた。 しかし11月1日朝には米軍がブーゲンビル島ブカ=ボニス飛行場をシャーマン少将の第38任務群が、ショートランドをメリル少将の第39任務群が攻撃。中部西海岸へ上陸し、タロキナ飛行場の建設を開始した。翌2日午前4時35分、瑞鶴飛行隊長・納富健次郎大尉を指揮官として一航戦の零戦65機、艦爆18機、第一基地航空部隊の零戦24機がラバウルを発し、セントジョージ岬にて米艦隊および直衛戦闘機隊と交戦。6機が未帰還となったが、駆逐艦1隻撃沈、巡洋艦1隻と輸送艦2隻に火災を起こさせ、直衛のF4U 6機(うち不確実3)の撃墜を報告した。ただし米軍資料によれば、艦戦の被害は第39任務群旗艦「モントピリア」が2発被弾したのみとなっている。午前7時40分、攻撃隊はラバウルに帰還。しかし11時40分、P-38 80機とB-25 75機が飛来し、瑞鳳飛行隊長・佐藤正夫大尉(海兵63期)を指揮官として、一航戦の零戦58機、第一基地航空部隊の57機(201空21機、204空17機、253空19機)が迎撃に上がった。この空戦で日本軍は127機を撃墜(米軍側資料では21機)、未帰還18機。 5日、ブーゲンビル島南端ショートランド水上機基地の人員が徒歩で北端ブカへ退却した。 5日、初めてラバウルに対する大規模な攻撃が実施された。米軍部隊は基地航空部隊と機動部隊の連合作戦で300機を超えた。11日にも同規模の攻撃が実施された。日本はこれらを邀撃したが、被害が大きく、艦艇入泊が不可能になり、兵力保持のための大量補給も絶たれた。 8日夜、日本陸軍の第17軍(主力第6師団)がタロキナ第一回目地上総攻撃。第一次 - 第六次ブーゲンビル島沖航空戦が発生。1航戦の大半は第三次まで参加した。1943年11月まで、東飛行場の戦闘機隊下士官兵の搭乗員宿舎は飛行場南西の市街地側の低地にあったが、12月に夜間空襲が10数機で一晩に数度と増えてきたために、准士官(飛曹長)以上の搭乗員が使っていた飛行場から10kmほど離れ夜涼しく過ごしやすい官邸山頂上の士官宿舎のそばに下士官兵の搭乗員宿舎も移転し、傍らに大きな防空壕が作られた。
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