タロキナ上陸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 20:58 UTC 版)
「ブーゲンビル島の戦い」の記事における「タロキナ上陸」の解説
ルンガ泊地を出撃したアメリカ上陸部隊の主力である第3海兵師団7500名は11月1日、ブーゲンビル島西岸のタロキナ岬に上陸を開始した。守備する歩兵第23連隊堀之内中隊は人員270名、山砲一門を擁するのみであった。アメリカ軍は上陸後三日間で戦死78名、負傷104名の損害を蒙ったものの、橋頭堡を確保した。 日本軍司令部はアメリカ軍の上陸地点をショートランド島とブインに近いモライ岬であると予測していたが、実際にはブインとジャングルで隔てられたタロキナ岬に上陸されたため、迅速に反撃することができなかった。急遽、日本軍は、第17師団の歩兵第54連隊の1個大隊による逆上陸作戦を計画した。その支援のため海軍はラバウルより艦隊を発進させたが、11月2日未明に発生したブーゲンビル島沖海戦で、視界不良の中でアメリカ艦隊のレーダー照準射撃を浴びて敗退した。 詳細は「ブーゲンビル島沖海戦」を参照 1943年11月1日、日本海軍は「ろ号作戦」を発動し、ブーゲンビル島のアメリカ軍へ航空攻撃を行い、以後ブーゲンビル島沖航空戦が六回に渡って発生した。 詳細は「ろ号作戦」を参照 なおも日本軍は逆上陸を行おうとし、支援部隊として巡洋艦と駆逐艦から成る遊撃部隊を編成してラバウルに進出させた。南太平洋軍司令官のハルゼーはこの遊撃部隊がタロキナに接近するのを阻止するためアメリカ軍空母部隊によるラバウル空襲(11月5日と11月11日)を決断した。この空襲は成功し、損害を受けた遊撃部隊の主要艦船はこの海域から撤退した。 詳細は「ラバウル空襲」を参照 日本軍の航空隊も反撃し、第一次ブーゲンビル島沖航空戦が発生した。 詳細は「ろ号作戦#11月5日 第一次ブーゲンビル島沖航空戦」を参照 ただし駆逐艦4隻(天霧、文月、卯月、夕凪)に分乗した逆上陸部隊は、軽巡阿賀野、能代などの支援の下、11月7日にタロキナ近くのコロモキナ潟(Koromokina Lagoon)への上陸に成功した。逆上陸部隊は、アメリカ軍の第9海兵連隊の2個大隊と戦闘となり、続々到着するアメリカ軍増援の前に2日間の戦闘で敗退した(タロキナ逆上陸作戦)。 詳細は「タロキナ逆上陸作戦(英語版)」を参照 陸上からも歩兵第23連隊を中心とした第6師団部隊約1200名によりタロキナ奪還作戦が試みられ、困難なジャングル内の移動で消耗しつつも11月7日に戦闘を開始した。湿地帯だったため膠着状態になったが、11月9日の戦闘でアメリカ軍が大きく押し返した。日本軍部隊は補給も続かず、11月11日に作戦中止して後退した(第一次タロキナ作戦)。ろ号作戦は11月11日の第三次ブーゲンビル島沖航空戦をもって終了となった。その後も航空攻撃が続けられた。 詳細は「ブーゲンビル島沖航空戦#ろ号作戦後」を参照 日本軍はブカ島へ輸送作戦を行ったが、11月24日から25日にかけての海戦で敗北した。 詳細は「セント・ジョージ岬沖海戦」を参照 アメリカ軍は、防衛態勢を安定させるために橋頭堡の拡大を図り、11月29日に海兵隊1個大隊による小規模な上陸作戦を行ったが、第6師団の一部により撃退された。日本側はこの戦闘をナボイ殲滅戦として過大評価した。 詳細は「ナボイの戦い」を参照 日本側は、既存拠点の防衛強化のため第17師団の歩兵第81連隊などを送り、11月末に上陸したこれらの部隊は北端のタリナ地区及び東岸のヌマヌマの守備についた。後にこれらの部隊は独立混成第38旅団(旅団長:木島袈裟雄少将)に改編された。ブインやキエタを含む南部は第6師団の担当地区となった。ブーゲンビル島沖航空戦は12月3日の第六次ブーゲンビル島沖航空戦が最後となった。 詳細は「ブーゲンビル島沖航空戦#12月3日 第六次ブーゲンビル島沖航空戦」を参照 12月15日にニューブリテン島にアメリカ軍が上陸するとラバウルの航空隊はそちらに対応することとなり、以後航空支援は無くなった。
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