日本軍の対応とは? わかりやすく解説

日本軍の対応

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 05:13 UTC 版)

第一次ソロモン海戦」の記事における「日本軍の対応」の解説

ツラギからの緊急電受けた日本海軍第八艦隊司令部は「有力な敵機部隊および上陸部隊出現」と判断し、ただちに対応を開始した第八艦隊神重徳首席参謀大前敏一参謀陸軍第一七軍の司令部飛び込み寝ていた二見秋三郎参謀長叩き起こしてアメリカ軍本格的な上陸部隊による反攻作戦始まったことを知らせた第十一航空艦隊参謀高橋大佐は、事態聞くと、直ち第二十五航戦司令官山田定義少将協議し、事の重大性確認する基地航空隊機動部隊を、第八艦隊で残る水上部隊駆逐しその後に1個大隊程度海軍陸戦隊投入すれば占領され地域早期奪回できると考えた。そこでラビ攻撃のために爆装していた第二十五航戦と第四航空隊合同部隊一式陸上攻撃機27機)を航空魚雷換装する時間もなく直ち発進させ、台南空零式艦上戦闘機18機と合流させてアメリカ軍上陸部隊迎撃に向かわせた。この攻撃飛行距離長いため、アメリカ軍迎撃による被害燃料消費による不時着予想された。そのため水上機母艦秋津洲峯風型駆逐艦秋風第十一航空艦隊、第34駆逐隊所属)、神風型駆逐艦追風第二海上護衛隊、第29駆逐隊所属)、二式大艇乗員回収のためにツラギ方面派遣された。同時に神重徳第八艦隊参謀発案した殴りこみ作戦採用され、同艦隊出撃準備始めた。これは外南洋部隊指揮官第八艦隊司令長官三川軍一中将麾下重巡洋艦鳥海第八艦隊旗艦)と、アドミラルティ諸島付近行動中でツラギからの緊急電によりラバウル向かって南下していた第六戦隊司令官五藤存知少将率い第六戦隊重巡4隻を集め、計5隻でガダルカナル泊地深夜攻撃をかける作戦であった。 すると、ラバウルにいた第十八戦隊司令官松山光少将東部ニューギニア攻略部隊指揮官)の軽巡洋艦天龍と、第四艦隊司令長官井上成美中将隷下第二海上護衛隊所属する軽巡洋艦夕張および神風型駆逐艦夕凪(第29駆逐隊)が同行申し入れてきた。二海護の夕張と第29駆逐隊追風夕凪朝凪夕月)は、第四艦隊命令により6月以降ソロモン諸島ニューギニア方面での作戦従事していた。この3隻は艦齢が古い艦で構成されており、また重巡戦隊比べて速度遅く練度も低いため一撃離脱夜戦には足手まといになるとされ、当初作戦計画ではラバウル置いていく予定であった。だが第一戦隊首席参謀篠原多磨中佐膝詰談判行いこれに根負けし三川中将同行許可することとなった。但し、本来露払いとして艦隊前衛務めるべき軽巡駆逐艦であるこの3隻は夜戦の邪魔にならぬように艦隊最後尾編入された。 集合した兵力一度合同訓練行ったことがなく、また艦隊速力を等一にするため実際に艦隊航行してスクリュー回転数調整する回転整合」の余裕もなく、複雑な艦隊行動不可能だった。特に天龍夕張夕凪急遽参加決まったため、隊内連絡に使う無線電話設定が間に合わず作戦中は直接指示受けられ苦労することとなる。さらに夕張スクリュー三軸のうち一軸故障して30ノットしか出せず、36ノットツラギ突入するはずだった第八艦隊攻撃計画修正余儀なくされた。夕張では、航行不能になった際に乗組員陸戦隊とするため、軽機関銃小銃積み込んでいたほどである。このように不安要素抱えた艦隊構成だったため、第八艦隊作戦参謀神大佐出撃前の作戦会議において、もっとも単純な戦法を取ることとして以下のように作戦要点をまとめ、各部隊指揮官説明した第一目標は敵輸送船であること 複雑な運動避けて単縦陣による一航過の襲撃とする 翌朝までに敵空母攻撃圏外避退すること(ミッドウェー二の舞避けるため) ソロモン列島間の中央航路通ってガダルカナル泊地まで進出する また第八艦隊ガダルカナルツラギ奪還のために陸軍第一軍司令部陸軍兵力派遣要請した。だが陸軍東部ニューギニアのポートモスレビー攻略作戦向けて準備進めており、即座判断出来なかったため、海軍申し出断った。そこで第八艦隊佐世保鎮守府第五特別陸戦隊呉鎮守府第三および第五特別陸戦隊から兵員590名をかきあつめ敷設艦津軽輸送船明陽丸(5628トン)、砕氷艦測量艦宗谷戦後南極観測船)、第二一号掃海艇第一六号駆潜艇第二四号駆潜艇をもってツラギ方面投入することにした。 第八艦隊作戦計画提出受けた大本営は、あまりにもリスクの高い作戦だとして懸念表明した。米艦隊全貌わからず第八艦隊のどの艦もガダルカナル周辺行動したともなく航空機援護望めず、参加艦艇統一陣形組んだことすらなかった。だがミッドウェー海戦敗北海軍士気低下していることを考慮した山本五十六連合艦隊司令長官は、「連合艦隊命令ではない」ことを明らかにした上で出撃計画承認した作戦の危険度は参加将兵共有され鳥海水雷長は乗艦していた報道班員丹波文雄に「とても生還できない戦いだから艦を下りた方が良い」とすすめている。 これら作戦計画に沿い、鳥海夕張天龍夕凪の4隻は8月7日午後2時30分、ラバウル出撃した。午後4時30分頃、第六戦隊青葉加古古鷹衣笠)と合流し24ノットガダルカナル目指した。出撃直後ラバウル空爆した複数B-17爆撃機発見された。B-17隊は司令部に「重巡洋艦1隻、軽巡洋艦3隻、駆逐艦1隻」の艦隊南東進んでいることを報告した。米潜水艦S-38は第八艦隊発見し司令部に「巡洋艦3隻、駆逐艦2隻」発見電報発信した。この情報8月8日午前7時38分に連合国軍艦隊届いた

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日本軍の対応

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 08:22 UTC 版)

イル川渡河戦」の記事における「日本軍の対応」の解説

1942年昭和17年8月7日日出4時45分)の連合軍フロリダ諸島来攻・ツラギ上陸速報対しラバウル現地では第八艦隊司令長官三川軍一海軍中将参謀長大西新蔵海軍少将首席参謀神重徳海軍大佐)が百武晴吉陸軍中将司令官とする第十七軍にソロモン諸島ガダルカナル島およびツラギ島奪回作戦への協力求めた第十七軍はポートモレスビー攻略東部ニューギニア要地勘定任務としていたので、ラバウル所在南海支隊ガダルカナル奪還投入する意図はなかった。第十七軍は、パラオ諸島所在8月15日ラバウル到着予定川口支隊なら投入可能と返答した第十七軍参謀松本博中佐によれば「(第八艦隊に対して川口支隊なら派遣できると述べたのは露骨な拒絶緩和するための発言にすぎなかった」であった。この時点で、第十七軍は「敵輸送船20隻(第八艦隊大前敏一参謀通報によれば輸送船25隻)」という規模から、来襲した敵兵力について二見秋三郎参謀長は約一個師団松本参謀は約一個聯隊以下と見做した。大本営海軍部は8月8日時点で「輸送船45隻と含む大艦隊がハワイ出撃し、うち戦艦1巡洋艦3、駆逐艦7、輸送船30隻がソロモン方面に来攻した」と分析した大本営陸海軍部連研究出た陸軍参謀は「要する本日状況判断に於ては、敵はソロモン占領確保すべく、之が奪回は相当手強きものあるべきにより、陸海軍共に所要兵力集結したる後、攻勢出づるを可とする方向一致せり」と業務日誌記している。同日夜、大本営陸軍部第十七軍に対し従来モレスビー作戦くわえてソロモン奪回作戦第十七軍の担任予定であると通報した8月9日大本営陸海軍部は来攻敵兵力を「一コ師団位」と推定しモレスビー作戦既定計画通り遂行すること、ソロモン方面反撃のためラバウル転進した戦闘機東部ニューギニアラエ復帰させブナ飛行場完成を急ぐこと、南海支隊主力ブナ上陸強行すること、ソロモン方面指向する陸軍兵力一木支隊歩兵第四十一聯隊として集合地点トラック泊地にすること…等を申し合わせた8月10日大本営海軍情報部は「ソロモン来攻兵力海兵隊一コ師団人員1.5」と断定した大本営陸軍部は、一木支隊第十七軍戦闘序列編入し第十四軍指揮にあった青葉支隊独立戦車第一中隊野戦重砲第二十一大隊一中隊を第十七軍指揮下に復帰させた。同10日午前中第二十五航空戦隊の陸攻ガダルカナル島周辺敵艦船を発見できず、日本軍は「我が軍大勝利である」「敵は敗退した」との希望的判断下した第十七軍は、第一次ソロモン海戦海軍基地航空隊戦果報告一喜一憂していた。8月9日午後1時20分、第十七軍は大本営対し「敵の占拠せるモレスビー、ラビツラギ〔註、ガダルカナル〕の中でモレスビーこそ重要であり、南海支隊による早期攻略が望ましい」と報告したこのように日本軍大本営陸海軍部、第十七軍、第十一航空艦隊第八艦隊)は「ソロモン諸島確実に占領されたが、有力な部隊ではない」と判断しひきつづきポートモレスビー攻略にともなうニューギニアの戦い重要視した大本営は来攻兵力海兵隊一個師団15,000名と推定していたが、日本軍の上陸作戦能力(揚搭時間)から見て連合軍はほとんどの部隊揚陸失敗して撤退した判断した日本軍上級司令部現地軍も、ガ島方面戦況に関して楽観視するようになった実際アメリカ海兵隊攻戦力は約16,000名(ガダルカナル島に約11,000名、フロリダ諸島に約5,000名)であった結局ソロモン南部投入される陸軍部隊は、パラオ諸島川口支隊川口清健少将歩兵35旅団司令部及び歩兵124連隊基幹)、フィリピン青葉支隊那須弓雄少将第2師団歩兵第4連隊主力基幹)、内地転属のためグァム島待機であった一木支隊一木清直大佐第7師団歩兵第28連隊基幹となった海軍側は、グァム所在横須賀鎮守府第五特別陸戦隊東チモール方面所在横須賀鎮守府第三特別陸戦隊落下傘部隊800名)、8月15日編成完了予定特別陸戦隊三隊投入することになった各隊直ちガダルカナル島向かったミッドウェー作戦後にグァム島待機していた一木支隊輸送船2隻(ぼすとん丸、大福丸)に分乗して8月7日グァム島出港後、命令により一旦グァム島引返し8日パラオ諸島へ向かうよう内報され、つづいてトラック泊地移動先を変更されトラック泊地到着時点第十七軍の隷下に入ることになった海軍上級司令部は「一木支隊兵力2400名では過少」として不満と不安を抱いたが、参謀本部が「この兵力自信あり」と説明したので、不満足ながら諒承した。大本営陸軍部にも一部で「増援至難絶海の孤島一木支隊送り込むノモンハン事件再現になるのでは」と懸念する意見もあったが、大本営陸海軍部の空気全般は非常に楽観的であった8月9日外南洋部隊第八艦隊)による夜戦基地航空部隊第十一航空艦隊)による空襲戦果報告によれば輸送船団をふくむ連合軍ガ島来襲部隊大部分撃滅という判定であった8月10日ガ島空襲むかった日本軍攻撃隊と、同島方面に進出した潜水艦部隊は、ともに連合軍水上部隊発見しなかった。大本営現地日本軍も、連合軍部隊大部分撤退させたと判定した。たとえば宇垣纏連合艦隊参謀長陣中日誌戦藻録』に「(8月10日)さては敵の奴昨夜攻撃に依り到底居たたまらず昨日の内に総退却をなせるか。」と記述している。大本営陸軍部参謀本部)に至っては「100%撤退」と判断していたという。一方で多数舟艇発見しまた対空砲火受けたことから、ガダルカナル島ツラギ諸島占領されたと判断した。すなわちガ島連合軍敗残兵であり、有力部隊ではないと認識した後日おこなわれた空襲航空偵察結果もその判断後押ししたので、大本営連合艦隊現地陸海軍含めてますます楽観的になった。同日大本営陸軍部一木支隊第十七軍の戦闘序列編入した。第十一航空艦隊は「ガ島奪回作戦川口部隊主力とし、一木支隊と横五特で8月25日実施予定電報した。第十七軍は大本営に「一木支隊第三十五旅団所要兵力ヲ『ソロモン』ニ指向スレバ作戦可能ナリ」と報告した8月12日大本営陸海軍部は陸海軍中央協定を結ぶ。ガダルカナル島奪回作戦は「カ」号作戦命名され現地陸海軍第十七軍、第十一航空艦隊第八艦隊協定による一木支隊輸送作戦は「キ」号作戦命名された。同12日夕刻一木支隊輸送船2隻と護衛の第4駆逐隊トラック泊地到着した一木支隊第1梯団トラック島ある日本軍海軍基地経由してガダルカナルへと向かったが、このとき一木大佐は「2,000名から10,000名の米兵上陸拠点をすでに掌握しており、正面からの攻撃避けるべきである」との説明受けた。同12日呂号第三十三潜水艦ガダルカナル島ハンター見張所との連絡成功した呂号第三十四潜水艦ガ島タイボ見張所との連絡成功した8月13日未明日本軍駆逐艦2隻はガダルカナル島到着したが、同島残留日本兵からの応答はなく連絡失敗した。2隻はヘンダーソン飛行場艦砲射撃敢行し、ラバウル引き揚げた。同日伊号第百二十二潜水艦伊号第百二十三潜水艦効果的な威力偵察実施し水陸両用戦車野砲砲兵陣地)、高射砲機銃存在報告した伊123は「ルンガ岬附近の敵上陸兵力は相当大」と報告したが、現地中央とも楽観的で、潜水艦偵察結果重要視されなかった。 8月13日午前中第十七軍は一木支隊先遣投入決断したその後陸海軍中央協定参謀次長からの電報を受け、あらため大本営意図説明したこの中でソロモン群島敵兵50006000名、速やかに飛行場利用封殺することが必要と述べている。 「キ」号作戦現地陸海軍協定第十一航空艦隊第八艦隊陸軍第十七軍)によれば一木支隊歩兵28聯隊長一木清直大佐)と横須賀鎮守府第五特別陸戦隊司令安田義達大佐)を上陸部隊とし、W(上陸予定日18日予定)-2日上陸部隊一木支隊先発隊、駆逐艦6隻)トラック出撃、W日上陸、W+3日後日+4日変更第二次上陸一木支隊主力部隊輸送船2隻、第二水雷戦隊護衛、間接護衛兵力として第六戦隊)を敢行という計画であった。敵空母出現した場合は、輸送およびガ島奪回作戦延期または取止める可能性があることも盛り込まれていた。 一木支隊戦闘序列は、歩兵第二十八聯隊工兵第七聯隊第一中隊および独立速射砲第八中隊、人員約2,000であったミッドウェー作戦においてミッドウェー島攻略目的編制され一木支隊は約40隻の折り畳み舟艇持っており、ガ島では駆逐艦内火艇組み合わせて上陸することになった内火艇舟艇使用して短時間のうちに上陸するという制限から、先遣隊歩兵携帯弾薬250発、糧食7日であった上陸後行軍都合上からも軽装備であり、対戦車兵器として亀甲状の爆雷保持していたという。横須賀鎮守府第五特別陸戦隊司令安田義達大佐616名は6月30日附で第四艦隊編入され、ナウル・オーシャン方面攻略予定していた。横五特の一部7月29日グァム島出発8月7日附で第八艦隊編入され8月12日ラバウル到着した第十七軍では、一木支隊先に派遣してヘンダーソン飛行場活動開始する前に封殺もしくは使用妨害するか、歩兵第三十五旅団一木支隊合流させ空母機動部隊護衛下で奪回作戦乗り出すか、両論があった。13日朝、第十七軍参謀長第十一航空艦隊参謀長酒巻宗孝海軍少将意見求めたその結果二見参謀長は「ガダルカナル島の敵を70008000と観たのは過大であった」「一木支隊早期派遣すべし」と判断修正した陸海軍現地協定もとづき百武中将は、一木支隊約2,300名から900名を先遣隊として駆逐艦6隻に分乗させ直ちガダルカナル島進出連合軍陣地攻撃しルンガ岬飛行場奪還せよと命じた作戦計画時点日本軍は、ガ島守備隊マタニカウ川左岸飛行場西方)に海軍本部設置していることを知らずなんらかの友軍部隊がいると見なされた飛行場東側タイボ見張所を上陸点に選んだ。また飛行場西側からの攻撃地形上の障害見込まれたことも影響した後続一木支隊第2梯団第二水雷戦隊護衛下で低速輸送船2隻(ぼすとん丸、大福丸)に乗船しガ島送り込まれることとなった一木支隊先遣隊は「敵に飛行場使用させないことが最少限の条件」こと求められており、第十七軍命令「止ムヲ得サレハガダルカナル島』ノ一角占領シ」とは「飛行場近く占拠して夜襲反覆により飛行場使用封じること」を意図したものであった。なお大本営陸軍部第十七軍に対し「(参謀次長依命電)「カ」号作戦規模ハ一ニ敵情ニ依リ第十軍司令官ニ於テ決定セラルヘキモノトシ中央トシテハ要スレハ第三十五旅団青葉支隊ヲモ使用シ得ル如ク配船考慮シアルモ、現状ニ於テハ寧ロ戦機重視シ成シ得レハ一木支隊海軍陸戦隊ノミヲ以テ速ニ奪回スルヲ可トセサルヤト考ヘアリ」との意図通知しており、戦況楽観視していたことがうかがえる。同13日夕刻大本営では永野修身軍令部総長杉山元参謀総長昭和天皇ソロモン方面奪回作戦について上奏する永野軍令部総長は、連合軍大部分引き揚げたと上奏した。 8月14日第十七軍の松本参謀トラック泊地出張して一木支隊長に軍命令伝達し、その意図説明した松本参謀は「最悪場合一コ師団一万位いるかも知れぬから、迂回と不意急襲強調した」「反面、敵が退避しつつあるかもしれないとも伝達した」「駐ソ武官からの情報について記憶がない」「飛行場占領失敗した場合は、飛行場近く占拠して一部兵力による夜襲反覆等により敵の飛行場使用封殺することが必要と伝えた」と回想している。後述のように、ガ島ヘンダーソン飛行場8月20日日中より使用開始した。同14日南東方面部隊指揮官命令従い外南洋部隊指揮官第八艦隊司令長官)は一木支隊ガ島輸送に関する作戦命令下令した。 兵力部署部隊名、指揮官兵力任務行動左ノ通)(イ)主 隊 指揮官直率 鳥海作戦支援 (ロ)支援部隊 第六戦隊司令官 第六戦隊 十六日カビエン」発増援部隊支援、敵水上部隊攻撃 (ハ)増援部隊 第二水雷戦隊司令官(1)護衛部第二水雷戦隊司令官 神通哨戒艇34号、哨戒艇35号、横五特(一部欠) 状況ニ依リ哨一、哨二ヲ加ヘ十六日〇五〇〇トラック」発陸軍輸送船団直接護衛ニ任ジ二十一日二二〇〇上陸点着 (2)挺身隊 第四駆逐隊司令 第四駆逐隊(第二小隊欠) 第十七駆逐隊(磯風欠)、陽炎 十六日〇九〇〇トラック」発一木支隊一部ヲ急速「ガダルカナル基地輸送十八二〇〇〇泊地進入上陸セシム (ニ)潜水部隊 第七潜水戦隊司令官 七潜戦、三潜戦 「ガダルカナル方面監視敵艦攻撃 (ホ)水上機部隊 第八根拠地隊司令官 聖川丸偵四機 「ギゾ」島ニ水上基地設営、「ガダルカナル島方面ノ偵察附近海面捜索 8月15日1520、第二水雷戦隊司令官田中頼三少将率い軽巡洋艦神通駆逐艦陽炎トラック泊地到着する田中少将第八艦隊および第十七軍参謀から説明を受け、さらに一木支隊との打ち合わせおこなったこの頃、駐ソ連武官より「米軍ガダルカナル島方面作戦飛行場基地破壊目的であって、この目的達成した米軍ガ島からの脱出腐心している」との情報大本営寄せられた。この情報ガ島へ向かう一木支隊にも伝達され一木支隊戦闘詳報にも記載されていたという。泊地では、一木支隊先遣隊駆逐艦上陸演習行っていた。同15日天皇ソロモン奪回後、ソロモン方面作戦に関して勅語下賜内意示した

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日本軍の対応

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 13:48 UTC 版)

ブーゲンビル島沖海戦」の記事における「日本軍の対応」の解説

トレジャリー諸島先行部隊上陸した10月27日時点で、ラバウルには以下のような日本艦隊がいた。 第一襲撃部隊大森仙太郎少将):重巡洋艦妙高羽黒軽巡洋艦長良 第二襲撃部隊伊集院松治少将):軽巡洋艦川内駆逐艦皐月文月卯月夕凪 この2つ襲撃部隊は、南東方面部隊草鹿任一中将)直率の連合襲撃部隊として大森少将指揮を執っていた。トレジャリー諸島上陸の報を受けて出撃準備取り掛かる間もなく取り消され長良第一襲撃部隊から外れてトラック諸島向かった残った連合襲撃部隊艦艇引き続きラバウル残り10月31日14時30分、タロキナへ向かう輸送船団発見の報を受けて以下の顔ぶれラバウル出撃する重巡洋艦妙高羽黒 軽巡洋艦川内 駆逐艦文月水無月時雨五月雨白露 連合襲撃部隊トレジャリー諸島西方洋上まで進出したものの、全く敵を見なかった。しかし実際には、ブカ島砲撃終えて引き続きショートランド砲撃へと向かう第39任務部隊南下中であり、タロキナ上陸船団連合襲撃部隊行動圏にあった。第39任務部隊ブカ島西方輸送作戦従事中の卯月に対して砲撃行っており、卯月被弾したが逃げ切る事に成功した。「卯月砲撃さる」の報を受信した連合襲撃部隊は、針路をほぼ北に向けてブカ島西方洋上へと向かう。ところが、「爆撃博物館のよう」な砲撃終えた39任務部隊ショートランド砲撃するのは11月1日明け方の事であり、連合襲撃部隊と第39任務部隊互いに知らぬまますれ違っていたのである3時40分まで第39任務部隊を捜し求めた連合襲撃部隊は、戦果挙げぬまま11月1日10時20分にラバウル帰投した。 11月1日タロキナ上陸事実明らかになると(公式には同日午前5時58分、第17軍司令官発/沖集参電第346号)、第八方面軍今村均中将)は第十七師団酒井康中将)中の一個大隊タロキナ逆上陸させる方針打ち出すタロキナ逆上作戦)。第8方面軍は、この逆上部隊を「第二機動決戦隊」と呼称していた。 詳細は「タロキナ逆上作戦英語版)」を参照 同日、「ろ号作戦」に関係する輸送作戦従事していた第十戦隊司令官大杉守一少将)の旗艦阿賀野駆逐艦3隻、第三十一駆逐隊駆逐隊司令香川清登大佐)を南東方面部隊指揮官草鹿任一南東方面艦隊司令長官)に編入し第三襲撃部隊構成させ、連合襲撃部隊加えた当初第三襲撃部隊逆上部隊輸送する手はずとなっていたが、そこに連合襲撃部隊ラバウル帰投した。大森少将第二襲撃部隊燃料搭載命じ次いで南東方面艦隊司令部との打ち合わせ結果連合襲撃部隊全力挙げてタロキナへの逆上陸を支援するとともに敵艦艇を撃滅することが決まった。なお、第三襲撃部隊中の駆逐艦風雲第十戦隊第10駆逐隊)と大波第二水雷戦隊第31駆逐隊)はカビエンへの輸送作戦途中であり、また駆逐艦巻波第31駆逐隊)はトラック方面護衛任務中のため、いずれも逆上作戦には加わらなかった。 南東方面に展開中の第一基地航空部隊は、まず夜間爆撃企図したが、のため連合軍艦隊発見できなかった。朝から正午までにラバウル航空隊第三波にわたり、タロキナ沖の連合軍船団攻撃した戦果報告あがったものの、損害大きかった。 「ろ号作戦#戦闘」も参照

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日本軍の対応

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 16:20 UTC 版)

黄河決壊事件」の記事における「日本軍の対応」の解説

国民革命軍開封陥落直前に約8kmに渡って黄河堤防破壊行い雨期に入る開封一帯水没させた。堤防破壊作業早いものは6月上旬中から数度わたって行われる形となり、当初被害限定的であった。しかし、6月11日夜に隴海線中牟西方20kmの地点黄河堤防3ヵ所が破壊されが堰を切って流れ出したため、12日午後5時に日本軍2部隊が堤防修理出動し開封治安維持会からも50名以上が自発的に応援出た洪水中牟中心として幅約20kmにわたり、5m弱の高さを持った中牟城壁は30cm程度を残すだけとなった。幸い線路が高い所に位置していたため、住民線路伝い徒歩東方避難した日本側の報道であるが、日本軍は筏船百数十艘を出して住民とともに救助活動行い同時に氾濫した中牟付近から別の地域誘導するために堤防河道築いた。この惨状の中で日本軍には犠牲者被害共にほとんどなかった。 国民革命軍現場近づく日本軍攻撃加えたほか、日本軍住民共同行っていた防水作業妨害した日本軍地上部隊住民とともに土嚢による防水作業行い日本軍航空機氾濫した地区において麻袋パラシュートにより投下してこれを支援したが、決壊地点対岸にいた中国軍遊撃隊麻袋投下開始直後からその航空機地上防水作業中の住民激し射撃加えたこともあった)。 全般に当初洪水による被害限定的であったようであるものの、その後による増水それまで決壊箇所から崩壊拡大被害きわめて広範囲に及び、場所によっては人の避難間に合わない事態となった通常7月増水期であり其の時期決壊が起こることは以前からあった為、6月のこの時期としては思わぬ量ののため、国民革命軍想定上の事態となった可能性がある。被害大きさ分かってからは、国民革命軍側でも堤防復旧作業対す妨害とりやめたとの日本メディアの報道もある。 日本軍救助され避難民開封方面1万仙鎮、通許方面5万尉氏方面2万、その他数万であった。 但し以上の情報日本宣伝機関である同盟通信社報道に基づく。

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