日本軍の対応
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ツラギからの緊急電を受けた日本海軍第八艦隊司令部は「有力なる敵機動部隊および上陸部隊出現」と判断し、ただちに対応を開始した。第八艦隊の神重徳首席参謀と大前敏一参謀は陸軍第一七軍の司令部に飛び込み、寝ていた二見秋三郎参謀長を叩き起こしてアメリカ軍の本格的な上陸部隊による反攻作戦が始まったことを知らせた。第十一航空艦隊参謀高橋大佐は、事態を聞くと、直ちに第二十五航戦司令官山田定義少将と協議し、事の重大性を確認する。基地航空隊で機動部隊を、第八艦隊で残る水上部隊を駆逐し、その後に1個大隊程度の海軍陸戦隊を投入すれば占領された地域を早期に奪回できると考えた。そこでラビ攻撃のために爆装していた第二十五航戦と第四航空隊の合同部隊(一式陸上攻撃機27機)を航空魚雷に換装する時間もなく直ちに発進させ、台南空の零式艦上戦闘機18機と合流させてアメリカ軍上陸部隊の迎撃に向かわせた。この攻撃は飛行距離が長いため、アメリカ軍の迎撃による被害と燃料消費による不時着が予想された。そのため水上機母艦秋津洲、峯風型駆逐艦秋風(第十一航空艦隊、第34駆逐隊所属)、神風型駆逐艦追風(第二海上護衛隊、第29駆逐隊所属)、二式大艇が乗員回収のためにツラギ方面へ派遣された。同時に神重徳第八艦隊参謀が発案した殴りこみ作戦が採用され、同艦隊は出撃準備を始めた。これは外南洋部隊指揮官(第八艦隊司令長官三川軍一中将)麾下の重巡洋艦鳥海(第八艦隊旗艦)と、アドミラルティ諸島付近を行動中でツラギからの緊急電によりラバウルに向かって南下していた第六戦隊司令官五藤存知少将率いる第六戦隊の重巡4隻を集め、計5隻でガダルカナル泊地に深夜攻撃をかける作戦であった。 すると、ラバウルにいた第十八戦隊(司令官松山光治少将、東部ニューギニア攻略部隊指揮官)の軽巡洋艦天龍と、第四艦隊(司令長官井上成美中将)隷下の第二海上護衛隊に所属する軽巡洋艦夕張および神風型駆逐艦夕凪(第29駆逐隊)が同行を申し入れてきた。二海護の夕張と第29駆逐隊(追風、夕凪、朝凪、夕月)は、第四艦隊の命令により6月以降ソロモン諸島やニューギニア方面での作戦に従事していた。この3隻は艦齢が古い艦で構成されており、また重巡戦隊に比べて速度も遅く練度も低いため一撃離脱の夜戦には足手まといになるとされ、当初の作戦計画ではラバウルに置いていく予定であった。だが第一八戦隊首席参謀の篠原多磨夫中佐が膝詰談判を行いこれに根負けした三川中将が同行を許可することとなった。但し、本来露払いとして艦隊前衛を務めるべき軽巡・駆逐艦であるこの3隻は夜戦の邪魔にならぬように艦隊最後尾に編入された。 集合した兵力は一度も合同訓練を行ったことがなく、また艦隊の速力を等一にするため実際に艦隊が航行してスクリューの回転数を調整する「回転整合」の余裕もなく、複雑な艦隊行動は不可能だった。特に天龍、夕張、夕凪は急遽参加が決まったため、隊内連絡に使う無線電話の設定が間に合わず、作戦中は直接指示を受けられず苦労することとなる。さらに夕張はスクリュー三軸のうち一軸が故障して30ノットしか出せず、36ノットでツラギ突入するはずだった第八艦隊攻撃計画は修正を余儀なくされた。夕張では、航行不能になった際に乗組員を陸戦隊とするため、軽機関銃や小銃を積み込んでいたほどである。このように不安要素を抱えた艦隊構成だったため、第八艦隊作戦参謀神大佐は出撃前の作戦会議において、もっとも単純な戦法を取ることとして以下のように作戦の要点をまとめ、各部隊指揮官に説明した。 第一目標は敵輸送船であること 複雑な運動を避けて単縦陣による一航過の襲撃とする 翌朝までに敵空母の攻撃圏外に避退すること(ミッドウェーの二の舞を避けるため) ソロモン列島間の中央航路を通ってガダルカナル泊地まで進出する また第八艦隊はガダルカナル、ツラギ奪還のために陸軍第一七軍司令部に陸軍兵力派遣を要請した。だが陸軍は東部ニューギニアのポートモスレビー攻略作戦に向けての準備を進めており、即座の判断が出来なかったため、海軍の申し出を断った。そこで第八艦隊は佐世保鎮守府第五特別陸戦隊、呉鎮守府第三および第五特別陸戦隊から兵員590名をかきあつめ、敷設艦津軽、輸送船明陽丸(5628トン)、砕氷艦(測量艦)宗谷(戦後、南極観測船)、第二一号掃海艇、第一六号駆潜艇、第二四号駆潜艇をもってツラギ方面に投入することにした。 第八艦隊の作戦計画提出を受けた大本営は、あまりにもリスクの高い作戦だとして懸念を表明した。米艦隊の全貌もわからず、第八艦隊のどの艦もガダルカナル周辺で行動したこともなく、航空機の援護は望めず、参加艦艇が統一陣形を組んだことすらなかった。だがミッドウェー海戦の敗北で海軍の士気が低下していることを考慮した山本五十六連合艦隊司令長官は、「連合艦隊の命令ではない」ことを明らかにした上で、出撃計画を承認した。作戦の危険度は参加将兵に共有され、鳥海水雷長は乗艦していた報道班員の丹波文雄に「とても生還できない戦いだから艦を下りた方が良い」とすすめている。 これら作戦計画に沿い、鳥海、夕張、天龍、夕凪の4隻は8月7日午後2時30分、ラバウルを出撃した。午後4時30分頃、第六戦隊(青葉、加古、古鷹、衣笠)と合流し、24ノットでガダルカナルを目指した。出撃直後、ラバウルを空爆した複数のB-17爆撃機に発見された。B-17隊は司令部に「重巡洋艦1隻、軽巡洋艦3隻、駆逐艦1隻」の艦隊が南東へ進んでいることを報告した。米潜水艦S-38は第八艦隊を発見し、司令部に「巡洋艦3隻、駆逐艦2隻」発見電報を発信した。この情報は8月8日午前7時38分に連合国軍艦隊に届いた。
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日本軍の対応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 08:22 UTC 版)
1942年(昭和17年)8月7日(日出は4時45分)の連合軍フロリダ諸島来攻・ツラギ上陸の速報に対し、ラバウル現地では第八艦隊(司令長官三川軍一海軍中将、参謀長大西新蔵海軍少将、首席参謀神重徳海軍大佐)が百武晴吉陸軍中将を司令官とする第十七軍にソロモン諸島ガダルカナル島およびツラギ島奪回作戦への協力を求めた。第十七軍はポートモレスビー攻略と東部ニューギニア要地勘定を任務としていたので、ラバウル所在の南海支隊をガダルカナル奪還に投入する意図はなかった。第十七軍は、パラオ諸島所在で8月15日頃ラバウル到着予定の川口支隊なら投入可能と返答した。第十七軍参謀松本博中佐によれば「(第八艦隊に対して)川口支隊なら派遣できると述べたのは露骨な拒絶を緩和するための発言にすぎなかった」であった。この時点で、第十七軍は「敵輸送船20隻(第八艦隊の大前敏一参謀の通報によれば輸送船25隻)」という規模から、来襲した敵兵力について二見秋三郎参謀長は約一個師団、松本参謀は約一個聯隊以下と見做した。大本営海軍部は8月8日時点で「輸送船45隻と含む大艦隊がハワイを出撃し、うち戦艦1、巡洋艦3、駆逐艦7、輸送船30隻がソロモン方面に来攻した」と分析した。大本営陸海軍部連絡研究に出た陸軍参謀は「要するに本日の状況判断に於ては、敵はソロモンを占領確保すべく、之が奪回は相当手強きものあるべきにより、陸海軍共に所要の兵力を集結したる後、攻勢に出づるを可とする方向に一致せり」と業務日誌に記している。同日夜、大本営陸軍部は第十七軍に対し、従来のモレスビー作戦にくわえてソロモン奪回作戦も第十七軍の担任予定であると通報した。 8月9日、大本営陸海軍部は来攻敵兵力を「一コ師団位」と推定し、モレスビー作戦は既定計画通り遂行すること、ソロモン方面反撃のためラバウルに転進した戦闘機を東部ニューギニアのラエに復帰させブナ飛行場の完成を急ぐこと、南海支隊主力のブナ上陸を強行すること、ソロモン方面に指向する陸軍兵力は一木支隊と歩兵第四十一聯隊として集合地点をトラック泊地にすること…等を申し合わせた。8月10日、大本営海軍部情報部は「ソロモン来攻兵力は海兵隊一コ師団、人員約1.5万」と断定した。大本営陸軍部は、一木支隊を第十七軍戦闘序列に編入し、第十四軍指揮下にあった青葉支隊・独立戦車第一中隊・野戦重砲兵第二十一大隊一中隊を第十七軍指揮下に復帰させた。同10日午前中、第二十五航空戦隊の陸攻はガダルカナル島周辺に敵艦船を発見できず、日本軍は「我が軍の大勝利である」「敵は敗退した」との希望的判断を下した。 第十七軍は、第一次ソロモン海戦や海軍基地航空隊の戦果報告に一喜一憂していた。8月9日午後1時20分、第十七軍は大本営に対し「敵の占拠せるモレスビー、ラビ、ツラギ〔註、ガダルカナル〕の中でモレスビーこそ重要であり、南海支隊による早期攻略が望ましい」と報告した。このように日本軍(大本営陸海軍部、第十七軍、第十一航空艦隊、第八艦隊)は「ソロモン諸島は確実に占領されたが、有力な部隊ではない」と判断し、ひきつづきポートモレスビー攻略にともなうニューギニアの戦いを重要視した。大本営は来攻兵力を海兵隊一個師団約15,000名と推定していたが、日本軍の上陸作戦能力(揚搭時間)から見て、連合軍はほとんどの部隊の揚陸に失敗して撤退したと判断した。日本軍は上級司令部も現地軍も、ガ島方面の戦況に関して楽観視するようになった。実際のアメリカ海兵隊来攻戦力は約16,000名(ガダルカナル島に約11,000名、フロリダ諸島に約5,000名)であった。 結局、ソロモン南部に投入される陸軍部隊は、パラオ諸島の川口支隊(川口清健少将、歩兵第35旅団司令部及び歩兵第124連隊基幹)、フィリピンの青葉支隊(那須弓雄少将、第2師団歩兵第4連隊主力基幹)、内地転属のためグァム島に待機中であった一木支隊(一木清直大佐、第7師団歩兵第28連隊基幹)となった。海軍側は、グァム所在の横須賀鎮守府第五特別陸戦隊、東チモール方面所在の横須賀鎮守府第三特別陸戦隊(落下傘部隊約800名)、8月15日編成完了予定の特別陸戦隊三隊を投入することになった。各隊は直ちにガダルカナル島へ向かった。ミッドウェー作戦後にグァム島に待機していた一木支隊は輸送船2隻(ぼすとん丸、大福丸)に分乗して8月7日にグァム島出港後、命令により一旦グァム島に引返し、8日にパラオ諸島へ向かうよう内報され、つづいてトラック泊地に移動先を変更され、トラック泊地到着時点で第十七軍の隷下に入ることになった。海軍上級司令部は「一木支隊の兵力2400名では過少」として不満と不安を抱いたが、参謀本部が「この兵力で自信あり」と説明したので、不満足ながら諒承した。大本営陸軍部にも一部で「増援至難の絶海の孤島に一木支隊を送り込むとノモンハン事件の再現になるのでは」と懸念する意見もあったが、大本営陸海軍部の空気全般は非常に楽観的であった。 8月9日、外南洋部隊(第八艦隊)による夜戦と基地航空部隊(第十一航空艦隊)による空襲の戦果報告によれば、輸送船団をふくむ連合軍ガ島来襲部隊の大部分を撃滅という判定であった。8月10日、ガ島空襲にむかった日本軍攻撃隊と、同島方面に進出した潜水艦部隊は、ともに連合軍水上部隊を発見しなかった。大本営も現地日本軍も、連合軍は部隊の大部分を撤退させたと判定した。たとえば宇垣纏連合艦隊参謀長は陣中日誌『戦藻録』に「(8月10日)さては敵の奴昨夜の攻撃に依り到底居たたまらず、昨日の内に総退却をなせるか。」と記述している。大本営陸軍部(参謀本部)に至っては「100%撤退」と判断していたという。一方で多数の舟艇を発見しまた対空砲火を受けたことから、ガダルカナル島とツラギ諸島は占領されたと判断した。すなわちガ島の連合軍は敗残兵であり、有力部隊ではないと認識した。後日おこなわれた空襲と航空偵察の結果もその判断を後押ししたので、大本営・連合艦隊・現地陸海軍含めてますます楽観的になった。同日、大本営陸軍部は一木支隊を第十七軍の戦闘序列に編入した。第十一航空艦隊は「ガ島奪回作戦は川口部隊を主力とし、一木支隊と横五特で8月25日に実施予定と電報した。第十七軍は大本営に「一木支隊ト第三十五旅団ノ所要兵力ヲ『ソロモン』ニ指向スレバ作戦可能ナリ」と報告した。 8月12日、大本営陸海軍部は陸海軍中央協定を結ぶ。ガダルカナル島奪回作戦は「カ」号作戦と命名され、現地陸海軍(第十七軍、第十一航空艦隊、第八艦隊)協定による一木支隊輸送作戦は「キ」号作戦と命名された。同12日夕刻、一木支隊輸送船2隻と護衛の第4駆逐隊がトラック泊地に到着した。一木支隊第1梯団はトラック島にある日本軍海軍基地を経由してガダルカナルへと向かったが、このとき一木大佐は「2,000名から10,000名の米兵が上陸拠点をすでに掌握しており、正面からの攻撃は避けるべきである」との説明を受けた。同12日、呂号第三十三潜水艦はガダルカナル島ハンター岬見張所との連絡に成功した。呂号第三十四潜水艦はガ島タイボ岬見張所との連絡に成功した。8月13日未明、日本軍の駆逐艦2隻はガダルカナル島に到着したが、同島残留日本兵からの応答はなく連絡に失敗した。2隻はヘンダーソン飛行場に艦砲射撃を敢行し、ラバウルに引き揚げた。同日、伊号第百二十二潜水艦と伊号第百二十三潜水艦は効果的な威力偵察を実施し、水陸両用戦車、野砲(砲兵陣地)、高射砲や機銃の存在を報告した。伊123は「ルンガ岬附近の敵上陸兵力は相当大」と報告したが、現地中央とも楽観的で、潜水艦の偵察結果は重要視されなかった。 8月13日午前中、第十七軍は一木支隊の先遣投入を決断した。その後、陸海軍中央協定や参謀次長からの電報を受け、あらためて大本営に意図を説明した。この中でソロモン群島の敵兵は5000~6000名、速やかに飛行場の利用を封殺することが必要と述べている。 「キ」号作戦現地陸海軍協定(第十一航空艦隊、第八艦隊、陸軍第十七軍)によれば、一木支隊(歩兵第28聯隊長一木清直大佐)と横須賀鎮守府第五特別陸戦隊(司令安田義達大佐)を上陸部隊とし、W(上陸予定日、18日予定)-2日上陸部隊(一木支隊先発隊、駆逐艦6隻)トラック出撃、W日上陸、W+3日(後日+4日に変更)第二次上陸(一木支隊主力部隊、輸送船2隻、第二水雷戦隊護衛、間接護衛兵力として第六戦隊)を敢行という計画であった。敵空母が出現した場合は、輸送およびガ島奪回作戦を延期または取止める可能性があることも盛り込まれていた。 一木支隊の戦闘序列は、歩兵第二十八聯隊、工兵第七聯隊第一中隊および独立速射砲第八中隊、人員約2,000名であった。ミッドウェー作戦においてミッドウェー島攻略を目的に編制された一木支隊は約40隻の折り畳み舟艇を持っており、ガ島では駆逐艦の内火艇と組み合わせて上陸することになった。内火艇や舟艇を使用して短時間のうちに上陸するという制限から、先遣隊の歩兵の携帯弾薬は250発、糧食は7日分であった。上陸後の行軍の都合上からも軽装備であり、対戦車兵器として亀甲状の爆雷を保持していたという。横須賀鎮守府第五特別陸戦隊(司令安田義達大佐)616名は6月30日附で第四艦隊に編入され、ナウル・オーシャン方面攻略を予定していた。横五特の一部は7月29日グァム島を出発、8月7日附で第八艦隊に編入され、8月12日ラバウルに到着した。 第十七軍では、一木支隊を先に派遣してヘンダーソン飛行場が活動を開始する前に封殺もしくは使用を妨害するか、歩兵第三十五旅団と一木支隊を合流させ空母機動部隊の護衛下で奪回作戦に乗り出すか、両論があった。13日朝、第十七軍参謀長は第十一航空艦隊参謀長酒巻宗孝海軍少将に意見を求めた。その結果、二見参謀長は「ガダルカナル島の敵を7000~8000と観たのは過大であった」「一木支隊を早期に派遣すべし」と判断を修正した。 陸海軍現地協定にもとづき百武中将は、一木支隊約2,300名から900名を先遣隊として駆逐艦6隻に分乗させ直ちにガダルカナル島に進出、連合軍陣地を攻撃しルンガ岬の飛行場を奪還せよと命じた。作戦計画時点の日本軍は、ガ島守備隊がマタニカウ川左岸(飛行場の西方)に海軍本部を設置していることを知らず、なんらかの友軍部隊がいると見なされた飛行場東側タイボ岬見張所を上陸点に選んだ。また飛行場西側からの攻撃は地形上の障害が見込まれたことも影響した。後続の一木支隊第2梯団は第二水雷戦隊護衛下で低速の輸送船2隻(ぼすとん丸、大福丸)に乗船し、ガ島へ送り込まれることとなった。一木支隊先遣隊は「敵に飛行場を使用させないことが最少限の条件」こと求められており、第十七軍命令「止ムヲ得サレハ『ガダルカナル島』ノ一角ヲ占領シ」とは「飛行場の近くを占拠して夜襲の反覆により飛行場の使用を封じること」を意図したものであった。なお大本営陸軍部は第十七軍に対し「(参謀次長依命電)「カ」号作戦ノ規模ハ一ニ敵情ニ依リ第十七軍司令官ニ於テ決定セラルヘキモノトシ中央トシテハ要スレハ第三十五旅団及青葉支隊等ヲモ使用シ得ル如ク配船ヲ考慮シアルモ、現状ニ於テハ寧ロ戦機ヲ重視シ成シ得レハ一木支隊ト海軍陸戦隊ノミヲ以テ速ニ奪回スルヲ可トセサルヤト考ヘアリ」との意図を通知しており、戦況を楽観視していたことがうかがえる。同13日夕刻、大本営では永野修身軍令部総長と杉山元参謀総長が昭和天皇にソロモン方面奪回作戦について上奏する。永野軍令部総長は、連合軍の大部分は引き揚げたと上奏した。 8月14日、第十七軍の松本参謀はトラック泊地に出張して一木支隊長に軍命令を伝達し、その意図を説明した。松本参謀は「最悪の場合一コ師団一万位いるかも知れぬから、迂回と不意急襲を強調した」「反面、敵が退避しつつあるかもしれないとも伝達した」「駐ソ武官からの情報については記憶がない」「飛行場占領が失敗した場合は、飛行場の近くを占拠して一部兵力による夜襲反覆等により敵の飛行場使用を封殺することが必要と伝えた」と回想している。後述のように、ガ島ヘンダーソン飛行場は8月20日の日中より使用を開始した。同14日、南東方面部隊指揮官の命令に従い、外南洋部隊指揮官(第八艦隊司令長官)は一木支隊のガ島輸送に関する作戦命令を下令した。 兵力部署(部隊名、指揮官、兵力、任務行動左ノ通)(イ)主 隊 指揮官直率 鳥海 全作戦支援 (ロ)支援部隊 第六戦隊司令官 第六戦隊 十六日「カビエン」発増援部隊ノ支援、敵水上部隊ノ攻撃 (ハ)増援部隊 第二水雷戦隊司令官(1)護衛部隊 第二水雷戦隊司令官 神通、哨戒艇34号、哨戒艇35号、横五特(一部欠) 状況ニ依リ哨一、哨二ヲ加ヘ十六日〇五〇〇「トラック」発陸軍輸送船団ノ直接護衛ニ任ジ二十一日二二〇〇上陸点着 (2)挺身隊 第四駆逐隊司令 第四駆逐隊(第二小隊欠) 第十七駆逐隊(磯風欠)、陽炎 十六日〇九〇〇「トラック」発一木支隊ノ一部ヲ急速「ガダルカナル」基地ニ輸送、十八日二〇〇〇泊地進入上陸セシム (ニ)潜水部隊 第七潜水戦隊司令官 七潜戦、三潜戦 「ガダルカナル」方面監視、敵艦艇攻撃 (ホ)水上機部隊 第八根拠地隊司令官 聖川丸水偵四機 「ギゾ」島ニ水上基地設営、「ガダルカナル」島方面ノ偵察、附近海面ノ捜索 8月15日1520、第二水雷戦隊司令官田中頼三少将が率いる軽巡洋艦神通と駆逐艦陽炎がトラック泊地に到着する。田中少将は第八艦隊および第十七軍参謀から説明を受け、さらに一木支隊との打ち合わせをおこなった。この頃、駐ソ連武官より「米軍のガダルカナル島方面作戦は飛行場基地破壊が目的であって、この目的を達成した米軍はガ島からの脱出に腐心している」との情報が大本営に寄せられた。この情報はガ島へ向かう一木支隊にも伝達され、一木支隊戦闘詳報にも記載されていたという。泊地では、一木支隊先遣隊と駆逐艦が上陸演習を行っていた。同15日、天皇はソロモン奪回後、ソロモン方面作戦に関して勅語下賜の内意を示した。
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日本軍の対応
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「ブーゲンビル島沖海戦」の記事における「日本軍の対応」の解説
トレジャリー諸島に先行部隊が上陸した10月27日の時点で、ラバウルには以下のような日本艦隊がいた。 第一襲撃部隊(大森仙太郎少将):重巡洋艦妙高、羽黒、軽巡洋艦長良 第二襲撃部隊(伊集院松治少将):軽巡洋艦川内、駆逐艦皐月、文月、卯月、夕凪 この2つの襲撃部隊は、南東方面部隊(草鹿任一中将)直率の連合襲撃部隊として大森少将が指揮を執っていた。トレジャリー諸島上陸の報を受けて出撃準備に取り掛かるも間もなく取り消され、長良は第一襲撃部隊から外れてトラック諸島に向かった。残った連合襲撃部隊の艦艇は引き続きラバウルに残り、10月31日14時30分、タロキナへ向かう輸送船団発見の報を受けて以下の顔ぶれでラバウルを出撃する。 重巡洋艦:妙高、羽黒 軽巡洋艦:川内 駆逐艦:文月、水無月、時雨、五月雨、白露 連合襲撃部隊はトレジャリー諸島西方洋上まで進出したものの、全く敵を見なかった。しかし実際には、ブカ島砲撃を終えて引き続きショートランド砲撃へと向かう第39任務部隊が南下中であり、タロキナ上陸船団も連合襲撃部隊の行動圏内にあった。第39任務部隊はブカ島西方で輸送作戦に従事中の卯月に対して砲撃を行っており、卯月は被弾したが逃げ切る事に成功した。「卯月砲撃さる」の報を受信した連合襲撃部隊は、針路をほぼ北に向けてブカ島西方洋上へと向かう。ところが、「爆撃博物館のよう」な砲撃を終えた第39任務部隊がショートランドを砲撃するのは11月1日の明け方の事であり、連合襲撃部隊と第39任務部隊は互いに知らぬまますれ違っていたのである。3時40分まで第39任務部隊を捜し求めた連合襲撃部隊は、戦果を挙げぬまま11月1日10時20分にラバウルに帰投した。 11月1日、タロキナ上陸の事実が明らかになると(公式には同日午前5時58分、第17軍司令官発/沖集参電第346号)、第八方面軍(今村均中将)は第十七師団(酒井康中将)中の一個大隊をタロキナへ逆上陸させる方針を打ち出す(タロキナ逆上陸作戦)。第8方面軍は、この逆上陸部隊を「第二機動決戦隊」と呼称していた。 詳細は「タロキナ逆上陸作戦(英語版)」を参照 同日、「ろ号作戦」に関係する輸送作戦に従事していた第十戦隊(司令官大杉守一少将)の旗艦阿賀野と駆逐艦3隻、第三十一駆逐隊(駆逐隊司令香川清登大佐)を南東方面部隊(指揮官草鹿任一南東方面艦隊司令長官)に編入して第三襲撃部隊を構成させ、連合襲撃部隊に加えた。当初は第三襲撃部隊が逆上陸部隊を輸送する手はずとなっていたが、そこに連合襲撃部隊がラバウルに帰投した。大森少将は第二襲撃部隊に燃料搭載を命じ、次いで南東方面艦隊司令部との打ち合わせの結果、連合襲撃部隊の全力を挙げてタロキナへの逆上陸を支援するとともに、敵艦艇を撃滅することが決まった。なお、第三襲撃部隊中の駆逐艦風雲(第十戦隊、第10駆逐隊)と大波(第二水雷戦隊、第31駆逐隊)はカビエンへの輸送作戦の途中であり、また駆逐艦巻波(第31駆逐隊)はトラック方面で護衛任務中のため、いずれも逆上陸作戦には加わらなかった。 南東方面に展開中の第一基地航空部隊は、まず夜間雷爆撃を企図したが、霧のため連合軍艦隊を発見できなかった。朝から正午までにラバウルの航空隊が第三波にわたり、タロキナ沖の連合軍船団を攻撃した。戦果報告はあがったものの、損害も大きかった。 「ろ号作戦#戦闘」も参照
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日本軍の対応
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国民革命軍は開封陥落直前に約8kmに渡って黄河の堤防破壊を行い、雨期に入る開封一帯を水没させた。堤防の破壊作業は早いものは6月上旬中から数度にわたって行われる形となり、当初の被害の限定的であった。しかし、6月11日夜には隴海線中牟の西方20kmの地点で黄河の堤防3ヵ所が破壊され、水が堰を切って流れ出したため、12日午後5時に日本軍の2部隊が堤防修理に出動し、開封治安維持会からも50名以上が自発的に応援に出た。洪水は中牟を中心として幅約20kmにわたり、5m弱の高さを持った中牟城壁は30cm程度を残すだけとなった。幸い線路が高い所に位置していたため、住民は線路伝いに徒歩で東方に避難した。日本側の報道であるが、日本軍は筏船百数十艘を出して住民とともに救助活動を行い、同時に氾濫した水を中牟付近から別の地域に誘導するために堤防と河道を築いた。この惨状の中で日本軍には犠牲者・被害共にほとんどなかった。 国民革命軍は現場に近づく日本軍に攻撃を加えたほか、日本軍が住民と共同で行っていた防水作業を妨害した(日本軍の地上部隊は住民とともに土嚢による防水作業を行い、日本軍の航空機も氾濫した地区において麻袋をパラシュートにより投下してこれを支援したが、決壊地点の対岸にいた中国軍遊撃隊が麻袋の投下開始直後からその航空機と地上で防水作業中の住民に激しい射撃を加えたこともあった)。 全般に当初の洪水による被害は限定的であったようであるものの、その後の雨による増水でそれまでの決壊箇所から崩壊が拡大、被害がきわめて広範囲に及び、場所によっては人の避難が間に合わない事態となった。通常、7月が増水期であり其の時期に決壊が起こることは以前からあった為、6月のこの時期としては思わぬ量の雨のため、国民革命軍の想定以上の事態となった可能性がある。被害の大きさが分かってからは、国民革命軍側でも堤防復旧作業に対する妨害はとりやめたとの日本メディアの報道もある。 日本軍に救助された避難民は開封方面1万、朱仙鎮、通許方面5万、尉氏方面2万、その他数万であった。 但し以上の情報は日本の宣伝機関である同盟通信社の報道に基づく。
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