日本軍の増強とワウの戦い
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「ニューギニアの戦い」の記事における「日本軍の増強とワウの戦い」の解説
日本の大本営はポートモレスビー陸路攻略作戦が失敗し、さらにブナの日本軍が玉砕した後もポートモレスビー攻略構想を放棄せず、将来のポートモレスビー攻略作戦に備えるとしてラエ、サラモア、マダン、ウェワクの増強を策定した。これに基づき多くの兵員と物資が東部ニューギニアに送られることになる。1943年1月、日本軍は第20師団と第41師団を第18軍指揮下に編入してニューギニア島北部のウェワクへ輸送するとともに、ガダルカナル島の戦いへの投入が予定されてラバウルに集結していた第51師団を、ラエ・サラモア地区へ輸送することとした。ブナ・ゴナ地区から撤退することができた各部隊の残存者は第51師団の指揮下に入り、ラエ・サラモア地区へ集結後ラバウルへ後退することとなった。 ラエへの最初の輸送作戦「第十八号作戦」は1月5日にラバウルを出発、空襲による損害を受けながらも岡部支隊(支隊長:第51歩兵団長岡部通少将、歩兵第102連隊基幹)の大半をラエへ輸送することに成功した。上陸後、岡部支隊はサラモアの南西60Kmの山間部にある鉱山町ワウの攻略作戦を開始した。ワウは飛行場を有し、連合軍の攻勢拠点となる潜在性があったため、機先を制して占領しようとしたものである。1月14日にサラモアを出発し1月28日にワウの攻撃を開始したが連合軍の反撃と食糧不足のため大きな損害を出して攻撃は失敗し、2月13日にワウからの撤退を開始した。 詳細は「ラエ・サラモアの戦い#ワウの戦い」を参照 第20師団は1月中~下旬にウェワクに上陸し、日本軍は続いて、第41師団、第20師団の残り、第51師団の主力(歩兵第115連隊)などを輸送する「第八十一号作戦」を実施した。この内、第41師団は2月下旬に無事ウェワクに上陸したが、第51師団の7,300名を載せてラエに向かった輸送船団は3月2日から3日にダンピール海峡で連合軍の空襲を受け、輸送船8隻すべてと駆逐艦4隻が撃沈され3,600名が戦死した。このすぐ後に行われた第20師団の残りの輸送はハンサ(ウェワクとマダンの間)に向かい無事上陸した。 詳細は「ビスマルク海海戦」を参照 その後、小規模に分かれた舟艇や駆逐艦による輸送により、連合軍の目をかいくぐって歩兵第66連隊(第51師団)の大半の輸送に成功し、第51師団師団長中野英光中将もサラモアに到着することができた。安達軍司令官、吉原参謀長、杉山作戦主任参謀らからなる第18軍司令部は、4月19日にラバウルからマダンへ進出した。第6飛行師団もこの頃、部隊の主力がラバウルからウェワクやその周辺に前進した。 ラエ・サラモア方面への海上からの輸送は連合国側の航空戦力の充実とともに次第に困難さを増した。このため第18軍司令官は、1月にウェワクに上陸した第20師団をマダンに移動させ、ラエまで物資を陸路で輸送するためのマダン-ラエ自動車道の建設を命じた。連合軍の制空権下で輸送船がぎりぎり到達可能なマダンから、フィニステル山系を横断し、ラム河谷からマーカム河谷を通って最前線のラエへ至る全長300キロの道路計画であった。日本軍には連合軍のような重機はほとんどなく、主につるはしともっこによる人力作業であり、多くの河川や熱帯特有の豪雨のため、その困難さは計画時の予想を大きく上回るものであった。それでも4月から工事を開始し、6月までに180キロを完成させた。しかし、そこで戦況の緊迫化もあり建設工事は放棄された。毎日自らシャベルを携行して工事の陣頭指揮にあたっていた第20師団長もこの工事の間にマラリアで陣没した。 この間幾度か、ニューギニアの困難な状況をもとにニューギニア放棄論も提起されたが、これが採用されることはなかった。
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