日本軍の壊滅と掃討戦
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「グアムの戦い」の記事における「日本軍の壊滅と掃討戦」の解説
総攻撃を撃破したアメリカ軍は、翌日の26日朝から、マンガン山の日本軍残存部隊を攻撃、第48旅団重松旅団長以下司令部要員は自ら銃を取って戦ったが全滅し、重松旅団長も戦死した。 第31軍司令官小畑英良中将と第29師団長高品彪中将は、残存兵力を持って北部密林地帯での持久戦を決意し、各部隊へ持久戦移行の命令を出した。司令部のあった本田台より小畑中将が先に脱出したが、師団長の高品彪中将は28日に戦車数十両で本田台に攻めてきたアメリカ軍との戦闘に巻き込まれて戦死した。師団の指揮は小畑軍司令官が師団長代理として直卒したが、軍として組織的な作戦は困難となっていた。 小畑中将は北部撤退当初には約3,000名の兵士を掌握していた。日本軍残存部隊は、ジャングル内を追撃してくるアメリカ軍相手によく遅滞戦術を行った。8月2日にはパリガタ(日本名 春田)地区で戦車十数両、歩兵200名のアメリカ軍を、歩兵第38連隊の第3歩兵砲中隊が迎撃し、戦車2両を撃破し歩兵100名を死傷させたが、馬場中隊長は戦死し、残った部隊はアメリカ戦車に肉弾攻撃を行った。翌3日には平塚方面に攻撃してきたアメリカ軍に残存砲兵で集中砲撃を加え、数両を撃破し、十数両を擱座させたが、アメリカ軍の反撃で砲兵は全滅している。。 8月7日には、アメリカ軍はグアム北部の要地イゴ村に進攻してきた。日本軍は残った2輌の95式軽戦車と速射砲と九八式二十粍高射機関砲などの兵器を集中して守りを固めており、アメリカ軍は2輌のM4戦車を撃破され、多数の死傷者を出したがイゴ村に突入した。その後も日本軍は3輌の95式軽戦車と歩兵がイゴ村に反撃してきて激戦となった。アメリカ軍は新兵器のバズーカと火炎放射器で戦車を攻撃しようとしたが、バズーカの威力を知っていた日本軍歩兵の激しい射撃で、アメリカ軍歩兵はバズーカを撃つこともままならなかった。そこで勇敢なアメリカ軍歩兵が、軽機関銃を日本軍戦車の開口部に突っ込んで撃ちまくり、戦車兵全員を射殺して1輌の戦車を無力化した。またもう1輌も手榴弾で撃破すると、残る1輌と日本軍歩兵は撤退し、イゴ村はアメリカ軍に確保された。この日本軍の夜襲では日本兵は18名の遺体を残したが、アメリカ軍も18名の死傷者を被っており、損害は互角であった。 以上の様に日本軍は善戦はしていたが、死傷者も増加していった。また飢えや病気などで斃れる兵士も増えていた。アメリカ軍は次第に日本軍の防衛線を突破すると8月10日には第31軍司令部のある又木山に達したが、その際には小畑中将が掌握している戦力はわずか300名となっていた。これ以上の撤退は無理と察した小畑軍司令官は11日に最後の総攻撃を命令した。残存していた戦車10両は果敢にアメリカ軍戦車に戦車戦を挑むも、戦車の性能の差は大きく全両撃破された。もはや殆ど武器も持たない日本軍歩兵は銃剣突撃したが全滅し、小畑軍司令官と田村参謀長も自決、日本軍の組織的な抵抗は完全に終わった。 その後にアメリカ軍は北部に達し、島の完全占領を成し遂げたが、一部の生き残った日本兵は飛行場を襲撃したり、交通・通信網を遮断するなどのゲリラ戦を行って執拗に抵抗を行った。だが、殆どの敗残兵はゲリラ戦というよりは日々生き延びることがせいぜいであり、密林内には食物はおろか飲み水すらまともになく、兵士たちは葉に付いた露で渇きを癒し、蛙やヤドカリまで口にして飢えを凌ぐ有様であった。 アメリカ軍は日本軍の敗残兵を軍用犬も活用し掃討を行った。グアム島では軍用犬が大規模に投入されており、350匹の軍用犬とハンドラー(調教師)90名が日本軍の狙撃兵探索や、洞窟や陣地の捜索や、伝令の任務を就いた。また、兵士が就寝中に日本軍の夜襲を警戒する任務も行い、兵士の安眠の手助けをしている。グアム戦中に死んだ軍用犬は25頭で負傷犬は20頭だった。 陣地構築の際の強制労働や占領時の収奪などで日本軍に恨みを抱いていた現地チャモロ人も掃討作戦に協力している。密林に潜んでいた日本兵は7,500名と推定されたが、捕虜となったのは合計で1,250名に過ぎず、他はアメリカ軍の掃討で戦死するか、自決したか、病気や飢えで亡くなった。それで最後の日本兵が降伏したのは終戦後の1945年9月4日の事であった。
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