最後の総攻撃
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5月18日の夜明け、城壁を取り囲むマムルーク朝軍の全方位から、ラッパと300頭のラクダに載せた太鼓の音が鳴り響いた。同時に兵士たちが城壁の割れ目に殺到し、午前9時には大勢が決した。マムルーク朝軍は内壁の呪われた塔(Accursed Tower)を占領し、十字軍を聖アントニウス門にまで押し戻した。十字軍は塔を奪い返そうとしたが、失敗した。聖アントニウス門を守備していたギヨーム・ド・ボジューは致命傷を負った。ギヨーム・ド・ボジューは、アッコが完全に陥落する前にテンプル騎士団の砦に埋葬された。 市内に乱入したマムルーク軍は、目に入った者はすべて殺していった。混乱の中で十字軍側の兵士や市民が海へ脱出しようとし始めたため、十字軍の防衛体制は崩壊し始めた。裕福な者は法外な料金を払って、先に安全に逃れようとした。傭兵隊長でテンプル騎士のルジェ・ダ・フローは、貴族や難民の脱出を助けることで財を成した。14世紀の聖職者ルドルフ・フォン・ズトハイムは、「市が今にも陥落しようという時、500人以上の高貴な貴婦人や処女、王侯の娘たちが、身に着けていた値もつけられないような金銀宝石のジュエリーやオーナメントを懐から出して、誰かこの宝石をすべて受け取って、自分たちを妻とする水夫はいないか、ただ自分たちを裸の状態でも安全な土地や島に連れて行ってくれればいいのだが、と大声で叫んだ。」と述べている。アンリ2世や聖ヨハネ騎士団総長ジャン・ド・ヴィリエらもその中に含まれており、彼らはキプロスへ逃げおおせた。貧しい人々は、なかなか街を脱出することができなかった。
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最後の総攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 17:00 UTC 版)
3月17日、アメリカ軍は硫黄島最北端の北ノ鼻まで到達した。この日、大本営よりその多大な功績を認められ(「追テ本人ハ第百九師団長トシテ硫黄島ニ在テ作戦指導ニ任シ其ノ功績特ニ顕著ナル……」)、同日付けで特旨を以て日本陸海軍最年少の大将(陸軍大将)に昇進した栗林は、同日に最後の総攻撃を企図し、隷下各部隊へ最後の指令が送られた。 一、戦局ハ最後ノ関頭ニ直面セリ 二、兵団ハ本十七日夜、総攻撃ヲ決行シ敵ヲ撃摧セントス 三、各部隊ハ本夜正子ヲ期シ各方面ノ敵ヲ攻撃、最後ノ一兵トナルモ飽ク迄決死敢闘スベシ 大君{注:3語不明}テ顧ミルヲ許サズ 四、予ハ常ニ諸子ノ先頭ニ在リ しかし同日は出撃の機会を見つけられなかったため、夜に約60m離れた来代工兵隊壕(歩兵第145連隊指揮所)への転進が行われ、市丸少将以下の海軍残存兵力と合流した。 その後も総攻撃の時機を待っていた栗林であったが、アメリカ軍は18日以降、艦砲射撃や空爆を中止し、海兵隊員を順次後方に下げて兵力を1個連隊程度に減らし近接戦闘を避けて、戦車と迫撃砲による火力封鎖を主とする戦術に切り替えていた。栗林はこの状況をよく見極めており、3月24日にその好機が来たと判断すると25日夜間の総攻撃開始を決定した。栗林は残った食料と水を全て放出して全員に渇きと飢えを癒すよう命じると、自らは最後の詩吟を始めたが、その詩がどのようなものであったのかは残っていない。栗林は、軍服の襟章(階級章)や軍刀の刀緒、所持品など、佩用(はいよう)・所有者の階級や職が把握できる物を外し、軍服の上から白襷を巻くと、2月26日の午前2時ごろ部隊の先頭に立って地下壕を出た。栗林の周りを市丸や大須賀といった陸海軍の司令官や参謀が囲んで、総勢400人の陸海軍混成部隊は前進を続けていたが、午前5時15分にアメリカ軍の野営地を発見したため攻撃を開始した。この最後の攻撃は栗林が戦闘前から戒めていた決死のバンザイ突撃ではなく、緻密に指揮された周到な攻撃であった。攻撃を受けたアメリカ軍は日本軍部隊がよく組織されているものと感じ、それは栗林の戦術的な規律によるものと評価している。 攻撃隊の将兵は残っていた兵器のほか、アメリカ軍から鹵獲したバズーカや自動小銃などを手にしていた。栗林らが攻撃したのは、アメリカ陸軍航空隊の第7戦闘機集団と第5海兵工兵大隊が就寝している露営地であったが、周到な攻撃によりアメリカ軍を大混乱に陥れた。就寝していたアメリカ兵によれば、日本軍は突如地下から湧いたように現れたという。戦闘は真っ暗闇の中で大混戦となり、日本兵はテントを破壊し、就寝していた戦闘機パイロットを銃剣で突き刺し、また持っていたアメリカ軍のU.S.M1カービンやM1911拳銃で射撃した。就寝していた戦闘機パイロットや工兵は軽武装か丸腰であったので、ある戦闘機パイロットは軍刀で斬りかかってきた日本軍将校を格闘のうえ絞殺したり、第5工兵大隊の小隊長 ハリー・L・マーティン(英語版)中尉はM1911拳銃だけで日本軍と渡り合い、2回負傷しながらも4人の日本兵を射殺したのち、手榴弾で爆死した。マーティンはこの活躍で、硫黄島の戦いにおける最後で合計27個目となるメダル・オブ・オナーの受勲者となった。 大混戦が繰り広げられる中で、第5海兵工兵大隊長のR.リデル少佐が「少なくとも敵1個師団以上の日本軍が襲撃してきた」などと混乱する部下将兵を鎮めると態勢を立て直した。その後海兵隊の他の部隊や「ジッポー戦車」の増援も到着し、3時間の激戦によって、攻撃隊は撃退されたが、アメリカ軍は戦闘機パイロットら44人が戦死、88人が負傷し、海兵隊員も9人が戦死、31人が負傷した。その後、栗林は部隊を元山方面に転戦しようとしたが、敵迫撃砲弾の破片を大腿部に受けて負傷し、司令部付き曹長に背負われながら前線から避退したが進退窮まり、最後に「屍は敵に渡してはいけない」と言い残し、近くの洞窟で自決、遺体は参謀長の高石が埋葬したという。アメリカ海兵隊の公式記録もその説を裏付けている。 3月26日に栗林と他の高級将校が日本軍の最後の攻撃を主導したという報告があった。この攻撃はバンザイ突撃ではなく、最大の混乱と破壊を生み出すことを目的とした優秀な計画であった。午前5時15分、200−300人の日本兵が島の西側に沿って北から下り、西部の海岸の近くで海兵隊と陸軍の露営地を攻撃した。混乱した戦いは3時間にも及び、第7戦闘機集団の司令部が大打撃を被ったが、混乱から立ち直って反撃を開始し、第5工兵大隊は急いで戦闘ラインを形成して敵の攻撃を食い止めた。日本軍の部隊は、日本とアメリカの両方の武器で十分に武装しており、40人が軍刀を帯びていたので、高級将校が高い割合を占めることを示していたが、遺体や書類を確認したところ栗林を見つけることはできなかった。 また、攻撃中にアメリカ軍の155㎜砲の直撃を受けて爆死し遺体が四散したため発見されなかったとの推察もある。他にも、栗林と最後の攻撃に参加して生還した通信兵小田静夫曹長の証言によれば、栗林は千鳥飛行場に天皇陛下万歳三唱して斬りこんだが、参謀長の高石か参謀の中根に自分を射殺するよう命じ、高石か中根は栗林を射殺したのちに自分も拳銃で自決したという。しかし、小田は実際には栗林の最後を見てはいない。栗林の最後を看取った者は誰も生還しておらず、結局のところは栗林が自決したのか戦死したのかは不明である。 最後の総攻撃後には日本兵の遺体262人が残され、18人が捕虜となった。海兵隊は栗林に敬意を表し遺体を見つけようとしたが、結局見つけることはできなかった。栗林の死を確信した第56任務部隊司令官スミスは「栗林は太平洋戦線で敵対したなかで最も侮りがたい存在であった」と評し、他の海兵隊員は「日本軍のなかに栗林のような人が他にいないことを願う」と実感を込めて述べている。アメリカ海兵隊の公式報告書による栗林に対する評価は下記となる。 海軍や航空支援を受けることができないことを運命づけられた栗林は、断固とした有能な野戦司令官であることを証明して見せた。 ウィキソースにルーズベルトニ与フル書の原文があります。 総攻撃には海軍第27航空戦隊司令官市丸も加わったが、市丸は出撃前に遺書としてアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトに宛てた『ルーズベルトニ与フル書』をしたため、これをハワイ生まれの日系二世三上弘文兵曹に英訳させ、アメリカ軍が将校の遺体を検査することを見越して懐中に抱いて出撃した。司令部に勤務し、生還した松本巌(海軍兵曹)によれば、書簡文日本文は村上治雄(海軍通信参謀)、英文は赤田邦雄(第二十七航空戦隊参謀)が体に巻いていたという。状況から、日英文3部書かれたと思われる。市丸は栗林が戦死したあとも生き残っており、翌日の3月27日に生き残った20人の将兵を引き連れて最後の突撃をしたという。アメリカ海兵隊によれば、書簡(和文・英文)は硫黄島北部壕内で発見された。『ルーズベルトニ与フル書』は目論見どおりアメリカ軍の手に渡り、7月11日、アメリカで新聞に掲載された。それは日米戦争の責任の一端をアメリカにあるとし、ファシズムの打倒を掲げる連合国の大義名分の矛盾を突くものであった。 貴下ハ真珠湾ノ不意打ヲ以テ、対日戦争唯一宣伝資料トナスト雖モ、日本ヲシテ其ノ自滅ヨリ免ルルタメ、此ノ挙ニ出ヅル外ナキ窮境ニ迄追ヒ詰メタル諸種ノ情勢ハ、貴下ノ最モヨク熟知シアル所ト思考ス。 (中略)卿等ノナス所ヲ以テ見レバ、白人殊ニ「アングロ・サクソン」ヲ以テ世界ノ利益ヲ壟断セントシ、有色人種ヲ以テ、其ノ野望ノ前ニ奴隷化セントスルニ外ナラズ。 (中略)卿等ノ善戦ニヨリ、克ク「ヒットラー」総統ヲ仆(たお)スヲ得ルトスルモ、如何ニシテ「スターリン」ヲ首領トスル「ソビエットロシヤ」ト協調セントスルヤ。 なお、ルーズベルトは4月12日に死去しているため、本書を本人が読むことはなかった。書簡はチェスター・ニミッツ太平洋艦隊司令長官によりアナポリス海軍兵学校海軍博物館に提出された。書類上は米国海軍省広報室次長キャンベル大佐が、博物館に貸し出した形式となっている。 これを以って、日本軍の組織的戦闘は終結した。だが、残存兵力によって局地的戦闘やゲリラによる遊撃戦が終戦まで続いていた、アメリカ軍は大損害を被った海兵隊の代わりに、陸軍の第147歩兵連隊(英語版)を硫黄島の掃討にあたらせた。第147歩兵連隊は地下壕を探索して回り、4月16日には野口巌軍医大尉が指揮する洞窟内野戦病院を発見、アメリカ軍の語学士官が投降を勧告したところ、軍医と患者で評決を取ることとなり、投降69票、反対3票で投降することとなった。なお、投降に反対した小島九太郎伍長は投降を拒んでその場で自決した。4月19日には独立機関銃第2大隊相馬正三中尉以下210人と戦闘となり、日本軍150人が戦死、脱出に成功した60人も4月21日にアメリカ軍陣地に突撃して壊滅した。生き残った工兵隊の武蔵野菊蔵中尉は、6月下旬に飢えにより人事不省になっているところをアメリカ軍に保護されて硫黄島から生還した。第147歩兵連隊は3か月間で1,602人の日本兵を殺害し、867人を捕虜としたが、多くの地下壕を爆破して閉鎖したため、壕内で6,000人の日本兵が生き埋めになったと推計している。一方で第147歩兵連隊は掃討作戦で15人が戦死し147人が負傷した。
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