最後の総攻撃とは? わかりやすく解説

最後の総攻撃

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/17 03:05 UTC 版)

アッコの陥落」の記事における「最後の総攻撃」の解説

5月18日夜明け城壁取り囲むマムルーク朝軍の全方位から、ラッパ300頭のラクダ載せた太鼓の音が鳴り響いた同時に兵士たち城壁割れ目殺到し午前9時には大勢決したマムルーク朝軍は内壁呪われた塔(Accursed Tower)を占領し十字軍聖アントニウス門にまで押し戻した十字軍は塔を奪い返そうとしたが、失敗した聖アントニウス門守備していたギヨーム・ド・ボジューは致命傷負った。ギヨーム・ド・ボジューは、アッコが完全に陥落する前にテンプル騎士団の砦に埋葬された。 市内乱入したマムルーク軍は、目に入った者はすべて殺していった。混乱の中で十字軍側の兵士市民海へ脱出しようとし始めたため、十字軍防衛体制崩壊し始めた裕福な者は法外な料金払って先に安全に逃れようとした。傭兵隊長でテンプル騎士ルジェ・ダ・フローは、貴族難民脱出助けることで財を成した14世紀聖職者ルドルフ・フォン・ズトハイムは、「市が今にも陥落しようという時、500人以上の高貴な貴婦人処女王侯娘たちが、身に着けていた値もつけられないような金銀宝石ジュエリーオーナメントを懐から出して誰かこの宝石をすべて受け取って自分たちを妻とする水夫はいないか、ただ自分たちを裸の状態でも安全な土地や島に連れて行ってくれればいいのだが、と大声叫んだ。」と述べている。アンリ2世聖ヨハネ騎士団総長ジャン・ド・ヴィリエらもその中に含まれており、彼らはキプロス逃げおおせた貧し人々は、なかなか街を脱出することができなかった。

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最後の総攻撃

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 17:00 UTC 版)

硫黄島の戦い」の記事における「最後の総攻撃」の解説

3月17日アメリカ軍硫黄島最北端の北ノ鼻まで到達した。この日、大本営よりその多大な功績認められ(「追テ本人ハ第百九師団長トシテ硫黄島ニ在テ作戦指導ニ任シ其ノ功績特ニ顕著ナル……」)、同日付け特旨を以て日本陸海軍最年少大将陸軍大将)に昇進した栗林は、同日に最後の総攻撃を企図し、隷下各部隊最後指令送られた。 一、戦局最後関頭直面セリ 二、兵団ハ本十七日夜総攻撃決行シ敵ヲ撃摧セントス 三、各部隊ハ本夜正子ヲ期シ各方面ノ敵ヲ攻撃最後ノ一兵トナルモ飽ク迄決死敢闘スベシ 大君{注:3語不明}テ顧ミルヲ許サズ 四、予ハ常ニ諸子先頭ニ在リ しかし同日出撃機会を見つけられなかったため、夜に約60m離れた来代工兵隊壕(歩兵145連隊指揮所)への転進が行われ、市丸少将以下の海軍残存兵力合流したその後総攻撃時機待っていた栗林であったが、アメリカ軍18日以降艦砲射撃空爆中止し海兵隊員順次後方下げて兵力を1個連隊程度減らし近接戦闘避けて戦車迫撃砲による火力封鎖主とする戦術切り替えていた。栗林はこの状況をよく見極めており、3月24日にその好機が来たと判断する25日夜間の総攻撃開始決定した栗林残った食料全て放出して全員渇き飢え癒すよう命じると、自らは最後の詩吟を始めたが、その詩がどのようなものであったのかは残っていない。栗林は、軍服襟章階級章)や軍刀の刀緒、所持品など、佩用はいよう)・所有者階級や職が把握できる物を外し軍服の上から白襷を巻くと、2月26日午前2時ごろ部隊先頭立って地下壕出た栗林周り市丸大須賀といった陸海軍司令官参謀囲んで総勢400人の陸海軍混成部隊前進続けていたが、午前5時15分アメリカ軍野営地発見したため攻撃開始した。この最後の攻撃栗林戦闘前から戒めていた決死バンザイ突撃ではなく緻密に指揮され周到な攻撃であった攻撃受けたアメリカ軍日本軍部隊がよく組織されているものと感じ、それは栗林戦術的な規律よるもの評価している。 攻撃隊の将兵残っていた兵器のほか、アメリカ軍から鹵獲したバズーカ自動小銃などを手にしていた。栗林らが攻撃したのは、アメリカ陸軍航空隊の第7戦闘機集団と第5海兵工兵大隊就寝している露営であったが、周到な攻撃によりアメリカ軍大混乱に陥れた。就寝していたアメリカ兵によれば日本軍突如地下から湧いたように現れたという。戦闘真っ暗闇の中で大混戦となり、日本兵テント破壊し就寝していた戦闘機パイロット銃剣突き刺し、また持っていたアメリカ軍U.S.M1カービンM1911拳銃射撃した就寝していた戦闘機パイロット工兵軽武装丸腰であったので、ある戦闘機パイロット軍刀で斬りかかってきた日本軍将校格闘のうえ絞殺したり、第5工兵大隊小隊長 ハリー・L・マーティン英語版中尉M1911拳銃だけで日本軍渡り合い、2回負傷しながらも4人の日本兵を射殺したのち、手榴弾爆死した。マーティンはこの活躍で、硫黄島の戦いにおける最後合計27個目となるメダル・オブ・オナー受勲者となった大混戦繰り広げられる中で、第5海兵工兵大隊長R.リデル少佐が「少なくとも敵1個師団上の日本軍襲撃してきた」などと混乱する部下将兵鎮める態勢立て直したその後海兵隊の他の部隊や「ジッポー戦車」の増援到着し3時間の激戦によって、攻撃隊は撃退されたが、アメリカ軍戦闘機パイロット44人が戦死88人が負傷し海兵隊員も9人が戦死31人が負傷したその後栗林部隊元山方面転戦しようとしたが、敵迫撃砲弾破片大腿部受けて負傷し司令部付き曹長背負われながら前線から避退したが進退窮まり最後に「屍は敵に渡してはいけない」と言い残し近く洞窟自決遺体参謀長高石埋葬したという。アメリカ海兵隊公式記録もその説を裏付けている。 3月26日栗林と他の高級将校日本軍最後の攻撃主導したという報告があった。この攻撃バンザイ突撃ではなく最大混乱破壊生み出すことを目的とした優秀な計画であった午前5時15分200300人の日本兵が島の西側沿って北から下り西部海岸近く海兵隊陸軍露営地を攻撃した混乱した戦い3時間にも及び、第7戦闘機集団司令部大打撃被ったが、混乱から立ち直って反撃開始し、第5工兵大隊急いで戦闘ライン形成して敵の攻撃食い止めた日本軍部隊は、日本アメリカ両方武器十分に武装しており、40人が軍刀帯びていたので、高級将校が高い割合占めることを示していたが、遺体書類確認したところ栗林を見つけることはできなかった。 また、攻撃中にアメリカ軍155砲の直撃受けて爆死遺体四散したため発見されなかったとの推察もある。他にも、栗林最後の攻撃参加して生還した通信兵小田静夫曹長証言によれば栗林千鳥飛行場天皇陛下万歳三唱して斬りこんだが、参謀長高石参謀中根自分射殺するよう命じ高石中根栗林射殺したのちに自分拳銃自決したという。しかし、小田実際に栗林最後見てはいない。栗林最後看取った者は誰も生還しておらず、結局のところは栗林自決したのか戦死したのかは不明である。 最後の総攻撃後には日本兵遺体262人が残され18人が捕虜となった海兵隊栗林敬意表し遺体を見つけようとしたが、結局見つけることはできなかった。栗林の死を確信した56任務部隊司令官スミスは「栗林太平洋戦線敵対したなかで最も侮りがたい存在であった」と評し、他の海兵隊員は「日本軍のなかに栗林のような人が他にいないことを願う」と実感込めて述べている。アメリカ海兵隊公式報告書による栗林対す評価下記となる。 海軍航空支援を受けることができないこと運命づけられた栗林は、断固とした有能な野戦司令官であることを証明して見せたウィキソースにルーズベルトニ与フル書の原文あります総攻撃には海軍27航空戦隊司令官市丸加わったが、市丸出撃前に遺書としてアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト宛てた『ルーズベルトニ与フル書』をしたため、これをハワイ生まれ日系二世三上弘文兵曹英訳させ、アメリカ軍将校遺体検査することを見越して懐中抱いて出撃した。司令部勤務し生還した松本巌(海軍兵曹によれば書簡文日本文は村上治雄(海軍通信参謀)、英文赤田邦雄(第二十七航空戦参謀)が体に巻いていたという。状況から、日英文3書かれたと思われる市丸栗林戦死したあとも生き残っており、翌日3月27日生き残った20人の将兵引き連れて最後突撃をしたという。アメリカ海兵隊によれば書簡和文英文)は硫黄島北部壕内で発見された。『ルーズベルトニ与フル書』は目論見どおりアメリカ軍の手渡り7月11日アメリカで新聞掲載された。それは日米戦争責任一端アメリカにあるとし、ファシズム打倒掲げ連合国大義名分矛盾を突くものであった貴下真珠湾ノ不意打ヲ以テ、対日戦唯一宣伝資料トナスト雖モ、日本ヲシテ其ノ自滅ヨリ免ルルタメ、此ノ挙ニ出ヅル外ナキ窮境ニ迄追ヒ詰メタル諸種情勢ハ、貴下ノ最モヨク熟知シアル所ト思考ス。 (中略)卿等ノナス所ヲ以テ見レバ白人殊ニ「アングロ・サクソン」ヲ以テ世界利益壟断セントシ、有色人種ヲ以テ、其ノ野望ノ前ニ奴隷化セントスルニ外ナラズ。 (中略)卿等ノ善戦ニヨリ、克ク「ヒットラー総統ヲ仆(たお)スヲ得ルトスルモ、如何ニシテスターリン」ヲ首領トスル「ソビエットロシヤ」ト協調セントスルヤ。 なお、ルーズベルト4月12日死去しているため、本書本人が読むことはなかった。書簡チェスター・ニミッツ太平洋艦隊司令長官によりアナポリス海軍兵学校海軍博物館提出された。書類上は米国海軍広報室次長キャンベル大佐が、博物館貸し出し形式となっている。 これを以って日本軍組織的戦闘終結した。だが、残存兵力によって局地的戦闘ゲリラによる遊撃戦終戦まで続いていた、アメリカ軍大損害を被った海兵隊代わりに陸軍の第147歩兵連隊英語版)を硫黄島掃討にあたらせた。第147歩兵連隊地下壕探索して回り4月16日には野口軍医大尉指揮する洞窟内野戦病院を発見アメリカ軍語学士官投降勧告したところ、軍医患者評決を取ることとなり、投降69票、反対3票で投降することとなった。なお、投降反対した小島九太郎伍長投降拒んでその場自決した4月19日には独立機関第2大隊相馬三中尉以下210人と戦闘となり、日本軍150人が戦死脱出成功した60人も4月21日アメリカ軍陣地突撃して壊滅した生き残った工兵隊武蔵野中尉は、6月下旬飢えにより人事不省になっているところをアメリカ軍保護され硫黄島から生還した。第147歩兵連隊は3か月間で1,602人の日本兵を殺害し、867人を捕虜としたが、多く地下壕爆破して閉鎖したため、壕内で6,000人の日本兵が生き埋めになった推計している。一方で147歩兵連隊掃討作戦15人が戦死し147人が負傷した

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