常徳城攻防戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/15 10:20 UTC 版)
すぐさま日本軍は第2期作戦として、常徳への侵攻に移った。第13師団と第3師団、第116師団が南に転進して常徳を西側から迂回し、東側から侵攻する第68師団と協力して片翼包囲する作戦だった。第39師団は宜都から漢洋河に沿って側面援護についた。 中国側もこの頃には有力な抵抗ができる状況となった。中国側の史料によると、常徳に日本軍を誘いこんで殲滅する新たな作戦計画に移行したとしている。澧水岸から常徳西方にかけて中国軍の部隊が次々と進出し、迂回包囲を試みる日本軍部隊と激突した。中国側の抵抗で日本軍の歩兵第65連隊は連隊長が負傷し、一時は軍旗の焼却を検討するほど追いつめられた。恩施や衡陽、芷江を拠点としたアメリカ軍機による航空支援も活発化し、常徳陥落までに261回もの出撃を行った。11月25日には、P-40戦闘機の攻撃で、日本軍歩兵第6連隊中畑護一連隊長が戦死した。 それでも日本軍の進撃を阻止はできなかった。澧水岸の石門県などを守備した中国第73軍(zh)は兵力の80%を失い、隷下の暫編第5師団は師団長の彭士量(zh)将軍までも戦死した。ほかにも陬市西北で第44軍の第150師団が撃滅されて、許國璋(zh)師団長が戦死するなど中国側は損害が続出した。常徳南西の桃源も落ち、日本軍の包囲網は一応完成した。 常徳城には中国第74軍の第57師団(余程萬(zh)少将)が守備についており、河川や水壕を生かして堅固な陣地を構成していた。11月22日、日本軍は第116師団が担当して攻城戦を開始したが、外郭陣地で激しい抵抗を受けて、歩兵第109連隊長の布上照一大佐以下多数の死傷者を出してしまった。予想外の苦戦に、日本側は第11軍司令部が直接の作戦指揮に乗り出し、11月25日から第3師団と第68師団の一部を加えて第二次総攻撃を行った。激戦の末、28日から29日にかけて日本軍は城内に突入したが、中国軍はなおも市街戦で抵抗し、家屋を一軒ずつ破壊・制圧するような戦闘が続いた。29日には、日本軍は市街に放火して破壊し作戦を終えるよう命令を発したが、煉瓦や土壁造りの建物が多く失敗した。 そこで、日本軍は包囲陣の一部を開放することで守備隊の脱出行動を誘うことにした。中国軍はこの計略に乗せられ、余師団長は一部の部隊とともに城外へ脱出し、後の指揮は連隊長の一人に委ねられた。12月3日、日本軍の最後の総攻撃で、中国側指揮官の連隊長は戦死し、常徳城守備隊は降伏した。中国側記録によると、第57師団は士官の95%が死傷し、重火器の90%を失うまで戦った。日本側の記録によれば、日本軍の損害は戦死72人と戦傷148人、中国軍の損害は遺棄死体502体と捕虜540人であった。中国軍の余師団長は部下200人とともに撤退に成功し、7日に毛湾の新編第11師団に収容された。常徳城の包囲戦の最中、中国第10軍は解囲作戦を試みていたが、12月1日に予備第10師団長である孫明瑾(zh)将軍が戦死するなどして失敗に終わった。なお、中国側は、この常徳の戦闘において日本軍が化学兵器を大量使用したと主張している。 この間11月下旬には、湖北省西部において、中国軍が日本軍拠点に対して頻繁な反撃を試みている。中国側によれば、11月25日には当陽で日本軍800人を殲滅し、航空機2機を破壊した。また、11月28日には、龍泉舗でも日本軍300人を殲滅したほか、荊門の日本軍物資集積所や飛行場を破壊したと主張している。
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