第2期作戦(漢水西岸)
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5月31日夜、第3師団と第39師団は襄陽対岸付近から漢水の渡河を開始した。命令は隠密渡河であったが、白河の渡河戦を味わった第39師団は砲兵射撃を実施して強行渡河した。6月1日、襄陽を占領した両師団は南下を開始した。中国軍は張自忠将軍を失ったこともあり、各軍の連携を失って各個に撃破されて潰走しつつあった。日本軍が襄西(漢水以西の呼称)に進出したことは重慶政府に動揺を与え、陳誠(軍事委員会政治部長)を宜昌に派遣して軍を統一指揮させた。 6月4日には、南方から第13師団、池田支隊、漢水支隊が漢水を渡河し宜昌を目指して西進を始めた。第11軍は北と南の兵団を統合して、宜昌東方の当陽付近で中国軍を包囲撃破することにした。日本軍は荊州、沙市など中国軍の根拠地を覆滅しながら進撃し、鹵獲品は連日増大した。6月9日、当陽周辺の包囲網は狭められ、第13師団は当陽南地区の陣地を突破、中国軍を潰走させて宜昌方面に迫った。一方、第3師団は峡口の山険で頑強に抵抗する中国軍第2軍よって進出を阻まれていた。 6月10日、第11軍は第13師団に対して宜昌の攻略を命令した。先陣を逃した第3師団と第39師団の将兵たちは落胆憤慨したが、第11軍は両師団に配慮して各一部部隊を宜昌攻略に参加させるよう追加命令した。翌11日夕刻、第13師団は宜昌に突入し、12日には宜昌を完全攻略した(この日、ヨーロッパではパリが陥落した。)。
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