第2期公安委員会(大公安委員会)
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「公安委員会 (フランス革命)」の記事における「第2期公安委員会(大公安委員会)」の解説
1793年7月10日に改選された新しい9名の公安委員の顔ぶれは得票数順で以下の通りである。バレール以外は全員が山岳派であった。票数の減少は、派遣議員となってパリにいない議員がかなりいたためと、ジロンド派追放によって136名の公会議員の資格が停止されていたからである。後述の理由で選挙は行われなかったので欠員が補充されることはなかった。 192票 アンドレ・ジャンボン・サン=タンドレ (fr:André Jeanbon Saint André) 192票 ベルトラン・バレール・ド・ヴューザック 178票 トマ=オーギュスタン・ガスパラン → 辞任 → マクシミリアン・ロベスピエール 176票 ジョルジュ・クートン 175票 マリー=ジャン・エロー・ド・セシェル 155票 ジャック=アレクシス・チュリオ・ド・ラ・ロジエール (fr:Jacques Alexis Thuriot de la Rozière) 142票 ピエール=ルイ・プリュール・ド・ラ・マルヌ 126票 ルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュスト 100票 ジャン=バティスト・ロベール・ランデ 第2期公安委員会も初期においては意見の不一致が顕著だった。ダントンは失脚したが、依然として保安委員会では影響力を持っていて、国民公会の議長にも就任して反発していた。しかし革命から離脱したジロンド派やブルジョワジーが王党派にさえ組したため、右派は大衆の支持をもはや失いつつあり、革命勢力は階級闘争的な手法を用いた左派がますます優勢となっていった。右派の委員は多数を占めたが、理由をつけて遅延させるなどの妨害をするのがやっとだった。7月13日のマラーの暗殺事件はいたずらに大衆の復讐心を煽り、左派の中でもより過激な勢力を台頭させ、同時に大衆迎合主義(またはサン・キュロット主義)の蔓延も促した。絶対的な独裁機構として制度が完成されていなかった公安委員会は左右の内部対立で混乱した。そのような情勢のなかで7月24日にガスパランが辞任した。7月27日、代わりに、「自分の気質に反して」だが、ロベスピエールがついに公安委員会に加わることになった。ロベスピエールが公安委員会に入ることで、公会とコミューン・公会とジャコバン・クラブとの間を取り持つ「つなぎ役」となって、ようやく彼を中心軸に委員会は機能することができた。 第2期となる公安委員会は1793年9月から1794年7月27日までの期間で、ロベスピエールら三巨頭(ロベスピエール、クートン、サン=ジュストの3人)を含むこの委員会を一般に大公安委員会と呼ぶ。二期連続で留任し全期務めたのはバレールただ一人で、もう一人の重要委員であったカンボンは財政政策に専念させるという理由で公安委員からは除かれ、財政委員会の専任となった。これによって財政とは完全に切り離されることになった。 7月下旬から8月上旬にかけてパリなどの都市部では食糧危機が再燃していた。パリでは最左翼の極左勢力であるアンラジェ(過激派)がこれを盛んに煽って、極端な社会政策を提示してサン・キュロットの支持を集め、体制打倒を目指すような言動をはじめた。八月十日祭を控え、危機感を強めた公安委員会は、派遣議員に近県から力ずくで徴用してパリに食糧を送るように厳命する一方、後述の機密費を利用して自治市会(パリ・コミューン)に大金を与え、物資の調達を命じた。これが功を奏して民衆の飢餓の不安が鎮まると、アンラジェへの支持は揺らぎ、その間隙に彼らを一斉に逮捕して粛清した。これら極端に過激な意見を取り除き、左右のバランスを取ろうというのは、ロベスピエールの指導によるものだった。 公安委員会の権限強化は後述するが、8月14日、軍事と兵站の専門家であるラザール・カルノーとプリュール・ド・ラ・コートドール (fr:Claude-Antoine Prieur de la Côte-d'Or) が助っ人として公安委員会に加えられた。前線で勝利して軍事情勢を早急に改善する必要があったためで、以後、軍事に疎い他の委員を排して革命戦争はカルノーが概ね1人で指導するようになったが、これに軍務局を奪われたサン=ジュストは内心では不満で、ロベスピエールやサン=タンドレ、プリュール・ド・ラ・マルヌらも、カルノーの作戦計画の詳細が説明され、討議されることを要求した。しかし軍事・戦争政策もまた、最後までロベスピエール派の手の及ばぬ分野であった。 8月下旬、今度は別の極左勢力で恐怖政治の強化を求めるエベール派(矯激派)の圧力が強まった。不幸なサン・キュロットの不満を汲む極左派の要求には際限がなかった。エベール派はどんどん増長していき、完全な勝利まで戦争をやめない無制限戦争を主張した。彼らによって、君主国との和議を試みるダントン派などは裏切り者として糾弾されたため、王党派と誤解されない平和政策を議員が唱えることは困難になった。 1793年の窮状に鑑みると、政権を握る側の不利は明らかだった。8月26日、トゥーロン港にイギリス海軍が入って、王党派によりルイ17世万歳の宣言がなされていたが、この不利なニュースを公安委員会は隠していて、9月2日にビョー=ヴァレンヌに厳しく詰問された。市中にもこのニュースが広まるとサン・キュロットは激怒してデモを起こした。9月5日、圧力に屈した国民公会が恐怖政治と諸法案を採択したため、動揺した公安委員会は、翌9月6日、3名を新たに加えようとし、公会は提案者であるダントン自身にも参加要請したが、辞退された。結局、台頭する左派を背景に、ビョー=ヴァレンヌとコロー・デルボワの2人だけが加わった。 9月20日にチュリオが辞任したので12人体制となり、9月25日、代わりに前線から帰った派遣議員ブリーズ (fr:Philippe Constant Joseph Briez) が公安委員に指名されたが、彼ら右派が戦争指導での失態の責任は公安委員会にあると不信任動議を出したことから、ロベスピエールの激昂に近い反発にあって批判を受けたために、驚いたブリーズは指名を拒否し、こうして右派の委員はいなくなった。一方、このときに不信任動議を退けただけでなく、ロベスピエールは「もし政府が無制限の信任を得られず、信任するに値しない人々によって構成されるならば、祖国は没落するであろう」と述べ、国民公会によって完全な信任、言い換えれば独裁権が得られることを希望したため、公安委員会は信任議決を得て、ロベスピエールがそのリーダーとして公式に認められた。以後、委員会は彼の責任内閣の性格を持つようになった。 なお、しばらく後の12月29日にエロー・ド・セシェルは逮捕されるため、さらに減って11人となるが、欠員は補充されることはなく、改選の動議もしばしば拒否(後述)されたために、このメンバーのままでテルミドールのクーデターまで存続した。
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