第2期公安委員会とは? わかりやすく解説

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第2期公安委員会(大公安委員会)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/24 03:30 UTC 版)

公安委員会 (フランス革命)」の記事における「第2期公安委員会(大公委員会)」の解説

1793年7月10日改選され新しい9名の公安委員顔ぶれ得票数順で以下の通りである。バレール以外は全員山岳派であった。票数の減少は、派遣議員となってパリにいない議員がかなりいたためと、ジロンド派追放によって136名の公会議員の資格停止されていたからである。後述理由選挙行われなかったので欠員補充されることはなかった。 192票 アンドレ・ジャンボン・サン=タンドレ (fr:André Jeanbon Saint André) 192票 ベルトラン・バレール・ド・ヴューザック 178トマ=オーギュスタン・ガスパラン → 辞任マクシミリアン・ロベスピエール 176ジョルジュ・クートン 175マリー=ジャン・エロー・ド・セシェル 155ジャック=アレクシス・チュリオ・ド・ラ・ロジエール (fr:Jacques Alexis Thuriot de la Rozière) 142ピエール=ルイ・プリュール・ド・ラ・マルヌ 126ルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュスト 100ジャン=バティスト・ロベール・ランデ 第2期公安委員会も初期においては意見不一致顕著だったダントン失脚したが、依然として保安委員会では影響力持っていて、国民公会議長にも就任して反発していた。しかし革命から離脱したジロンド派ブルジョワジー王党派にさえ組したため右派大衆支持をもはや失いつつあり、革命勢力階級闘争的な手法用いた左派がますます優勢となっていった。右派委員多数占めたが、理由をつけて遅延させるなどの妨害をするのがやっとだった。7月13日マラー暗殺事件いたずらに大衆復讐心を煽り左派中でもより過激な勢力台頭させ、同時に大衆迎合主義(またはサン・キュロット主義)の蔓延促した絶対的な独裁機構として制度完成されていなかった公安委員会左右内部対立混乱したそのような情勢のなかで7月24日にガスパランが辞任した7月27日代わりに、「自分気質反して」だが、ロベスピエールがついに公安委員会に加わることになったロベスピエール公安委員会に入ることで、公会コミューン公会ジャコバン・クラブとの間を取り持つつなぎ役となって、ようやく彼を中心軸委員会機能することができた。 第2期となる公安委員会1793年9月から1794年7月27日までの期間で、ロベスピエール三巨頭ロベスピエールクートンサン=ジュストの3人)を含むこの委員会一般に大公委員会と呼ぶ。二期連続留任し全期務めたのはバレールただ一人で、もう一人の重要委員であったカンボン財政政策専念させるという理由公安委員からは除かれ財政委員会専任となった。これによって財政とは完全に切り離されることになった7月下旬から8月上旬にかけてパリなどの都市部では食糧危機再燃していた。パリでは最左翼極左勢力であるアンラジェ過激派)がこれを盛んに煽って、極端な社会政策提示してサン・キュロット支持集め体制打倒目指すような言動はじめた八月十日祭を控え危機感強めた公安委員会は、派遣議員近県から力ずく徴用してパリ食糧を送るように厳命する一方後述機密費利用して自治市会パリ・コミューン)に大金与え物資調達命じた。これが功を奏して民衆飢餓の不安が鎮まると、アンラジェへの支持揺らぎその間隙に彼らを一斉に逮捕して粛清した。これら極端に過激な意見取り除き左右バランス取ろうというのは、ロベスピエール指導よるものだった。 公安委員会権限強化後述するが、8月14日軍事兵站専門家であるラザール・カルノーとプリュール・ド・ラ・コートドール (fr:Claude-Antoine Prieur de la Côte-d'Or) が助っ人として公安委員会加えられた。前線勝利して軍事情勢早急に改善する必要があったためで、以後軍事疎い他の委員排して革命戦争カルノー概ね1人指導するようになったが、これに軍務局奪われサン=ジュスト内心では不満で、ロベスピエールサン=タンドレ、プリュール・ド・ラ・マルヌらも、カルノー作戦計画詳細説明され討議されることを要求した。しかし軍事戦争政策また、最後までロベスピエール派の手及ばぬ分野であった8月下旬今度別の極左勢力恐怖政治強化求めエベール派(矯激派)の圧力強まった不幸なサン・キュロットの不満を汲む極左派の要求には際限がなかった。エベール派はどんどん増長していき、完全な勝利まで戦争やめない無制限戦争主張した。彼らによって、君主国との和議試みダントン派などは裏切り者として糾弾されたため、王党派誤解されない和政策を議員唱えることは困難になった。 1793年窮状鑑みると、政権を握る側の不利は明らかだった8月26日トゥーロン港にイギリス海軍入って王党派によりルイ17世歳の宣言なされていたが、この不利なニュース公安委員会隠していて、9月2日にビョー=ヴァレンヌ厳しく詰問された。市中にもこのニュースが広まるとサン・キュロット激怒してデモ起こした9月5日圧力屈した国民公会恐怖政治諸法案を採択したため、動揺した公安委員会は、翌9月6日、3名を新たに加えようとし、公会提案者であるダントン自身にも参加要請したが、辞退された。結局台頭する左派背景に、ビョー=ヴァレンヌコロー・デルボワ2人だけが加わった9月20日にチュリオが辞任したので12人体制となり、9月25日代わりに前線から帰った派遣議員ブリーズ (fr:Philippe Constant Joseph Briez) が公安委員指名されたが、彼ら右派戦争指導での失態責任公安委員会にあると不信任動議出したことから、ロベスピエール激昂に近い反発にあって批判受けたために、驚いたブリーズ指名拒否し、こうして右派委員はいなくなった一方、このときに不信任動議退けただけでなく、ロベスピエールは「もし政府無制限信任得られず、信任する値しない人々によって構成されるならば、祖国没落するであろう」と述べ国民公会によって完全な信任言い換えれば独裁得られることを希望したため、公安委員会信任議決得てロベスピエールがそのリーダーとして公式に認められた。以後委員会彼の責任内閣性格を持つようになった。 なお、しばらく後の12月29日にエロー・ド・セシェルは逮捕されるため、さらに減って11人となるが、欠員補充されることはなく、改選動議もしばしば拒否後述)されたために、このメンバーのままでテルミドールのクーデターまで存続した。

※この「第2期公安委員会(大公安委員会)」の解説は、「公安委員会 (フランス革命)」の解説の一部です。
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