第2期以降
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「国書刊行会 (1905-1922)」の記事における「第2期以降」の解説
1909年(明治42年)、早川純三郎(1872年3月26日 - 1930年1月25日)が市島謙吉から経営を引き継ぎ、以後、解散まで編集業務にあたった。1911年(明治44年)には、のちに続群書類従完成会を設立する太田藤四郎(1890年10月10日 - 1953年2月11日)がスタッフに加わっている。のち、早川が日本史籍協会を設立した際、太田が国書刊行会主事となっている。 1922年(大正11年)、第8期の完結をもって解散。解散後、紙型は早川によって処分されたとされるが、紙型を入手した広谷という古物商が「広谷国書刊行会」という名義で重版を行っている。
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第2期以降
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第2期では、第1期の順位決定リーグ戦の各組1位が1位から8位(白玲とA級1位から7位)まで、各組2位が9位から16位(A級8位から10位とB級1位から5位)までというように決め、初代白玲を除く上位からA級B級が各10人、C級が20人、残りの全員がD級に分かれる。A・B級が9回戦総当たり、C・D級が事前抽選によって対局相手を決定する8回戦となり、順位戦と同様に昇降級が行われる。A級優勝者が白玲への挑戦者となる。第3期以降は前期成績による昇降級を反映したクラス分けとなる。 クラスと昇級・降級クラス定員白玲戦・順位戦の対局数 持ち時間昇級など降級・降級点白玲1人 挑戦者と七番勝負 4時間 挑戦者に4勝で白玲位防衛 挑戦者に4敗で白玲位失冠→次期 A級(1位) A級10人 総当たり 9戦(原則)+プレーオフ 3時間 【白玲挑戦者(優勝者)】白玲に4勝で白玲位獲得 【降級者】成績が下位の2名→次期 B級 B級10人 総当たり9戦(原則) 【昇級者】成績が上位の2名→次期 A級 【降級者】成績が下位の3名→次期 C級 C級20人 同クラス内での8戦 2時間 【昇級者】成績が上位の3名 全勝者は4名以上でも全員昇級 →次期 B級 【降級者】成績が下位の4名→次期 D級 D級不定 【昇級者】成績が上位の4名 全勝者は5名以上でも全員昇級 →次期 C級 【降級点】成績が下位の5名(参加人数4.5人につき1人の割合) 持ち時間は全てチェスクロック方式。 女流2級でプロ入りした女流棋士の女流順位戦参加初年度は、D級での参加となる(第2期以降)。 C級以下で全勝者が昇級枠以上発生した場合は、次期上位クラスの降級人数を増やして人数調整を行う。途中休場による不戦敗を含めて降級(降級点)に相当する成績となった場合や、前期を休場し張出となったまま再度休場した場合も降級(降級点)の対象となる。 女流順位戦D級降級点に関する規定 D級降級点は参加人数4.5人につき1人の割合で成績下位に付与される。 D級降級点3つの付与で、女流順位戦D級から降級となり女流順位戦への参加権を失う。1つ目のD級降級点は、D級在籍中は消去されない。 2つ目のD級降級点は、D級で勝ち越し(5勝以上)の条件を満たせば消去される。棋士の順位戦での降級点規定と異なり、D級降級点は2期連続指し分け(4勝4敗)では消去されない。 C級に昇級、またはD級から降級した場合、降級点は全てリセットされる。再度D級に在籍する場合、1年目は降級点0となる。 女流順位戦D級から降級・陥落した女流棋士は、次の条件を満たせば女流順位戦D級に復帰できる。復帰までの期限は設けられていない。清麗戦 - 予選決勝進出(ベスト7) マイナビ女子オープン - 本戦2回戦進出(ベスト8) 女流王座戦 - 本戦2回戦進出(ベスト8) 女流名人戦 - 女流名人戦リーグ入り(リーグ残留6人・予選通過4人) 女流王位戦 - 挑戦者決定リーグ入り(リーグ残留6人・予選通過6人) 女流王将戦 - 本戦2回戦進出(ベスト8) 倉敷藤花戦 - ベスト8 女流順位戦D級成績下位者に与えられる降級点は、女流棋士の引退制度における「降級点」とは異なる制度である。
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