第2期南仏時代以降(1952年 - 1996年)
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「青山義雄」の記事における「第2期南仏時代以降(1952年 - 1996年)」の解説
追いつめられていた青山は1952年、まだ海外渡航が規制されている中、マティスにフランスへ招待するという形式の書状を送ってもらい、再渡仏を実現する。一時帰国のつもりがいつの間にか17年間が経ち、青山は58歳になっていた。早速マティスを訪ねると師は病床にあった。マティスは青山との再会を喜んだが、その師は1954年に亡くなる。そこから青山は独自の世界を作り上げていった。 63歳で自動車免許を取得し、南仏を中心に西はスペイン、東はイタリア、ユーゴスラビア、ギリシャまで足を伸ばし、水を得た魚のように描いた。1967年にはカーニュからニースへ移るが、新しいアトリエからはマティスの墓を見ることができる。 80歳を越えても青山は若々しさを失うことなく、かえって艶やかさを増すような絵を描き続けた。だが、92歳となって青山も体力の衰えを感じた。屋外で写生するために担いでいった100号のキャンバスが重くてへとへとになった自分を知ったときに帰国の決意を固めた。1986年、後ろ髪を引かれる思いで、帰国し茅ヶ崎市に住むこととなった。 帰国後も絵への思いはますます燃え盛った。94歳の時、新聞へのインタビュー(1988年9月16日朝日新聞夕刊)に答えて、青山は「絵かきは展覧会も死んでからやってもらうのがよい。あんなことをしていると絵を描くひまがない」と語った。 南仏に帰りたいという気持ちは年々高まり、100歳の時には実際に航空券まで手配して、成田空港のホテルに前泊し、翌日「やっぱり無理だ」と渋々、家へ帰ってきたこともある。 1996年10月、青山は102歳の生涯を絵のためだけに捧げ、逝った。
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