第2期南仏時代以降とは? わかりやすく解説

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第2期南仏時代以降(1952年 - 1996年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 19:45 UTC 版)

青山義雄」の記事における「第2期南仏時代以降(1952年 - 1996年)」の解説

追いつめられていた青山1952年、まだ海外渡航規制されている中、マティスフランスへ招待するという形式書状送ってもらい、再渡仏実現する一時帰国のつもりがいつの間に17年間が経ち青山58になっていた。早速マティス訪ねると師は病床にあったマティス青山との再会喜んだが、その師は1954年亡くなる。そこから青山は独自の世界作り上げていった。 63歳自動車免許取得し南仏中心に西はスペイン、東はイタリアユーゴスラビアギリシャまで足を伸ばし水を得た魚のよう描いた1967年にはカーニュからニースへ移るが、新しアトリエからはマティスの墓を見ることができる。 80歳を越えて青山若々しさを失うことなく、かえって艶やかさを増すような絵を描き続けた。だが、92となって青山体力衰え感じた屋外写生するために担いでいった100号のキャンバス重くへとへとになった自分知ったときに帰国決意固めた1986年後ろ髪を引かれる思いで、帰国し茅ヶ崎市に住むこととなった帰国後も絵への思いはますます燃え盛った94歳の時、新聞へのインタビュー1988年9月16日朝日新聞夕刊)に答えて青山は「絵かき展覧会死んでからやってもらうのがよい。あんなことをしていると絵を描くひまがない」と語った南仏帰りたいという気持ち年々高まり100歳時には実際に航空券まで手配して成田空港ホテル前泊し、翌日やっぱり理だ」と渋々、家へ帰ってきたこともある。 1996年10月青山102歳の生涯を絵のためだけに捧げ、逝った。

※この「第2期南仏時代以降(1952年 - 1996年)」の解説は、「青山義雄」の解説の一部です。
「第2期南仏時代以降(1952年 - 1996年)」を含む「青山義雄」の記事については、「青山義雄」の概要を参照ください。

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