第1期作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/14 08:12 UTC 版)
日本軍の夜襲は成功し、翌日にはフランス軍拠点の多くは制圧された。サイゴンではフランス軍幹部の2/3は外出中で組織的な応戦ができず、1時間程度で駐屯地が制圧され、ドクー総督も抵抗せずに捕虜となった。ランソンのシタデル兵営やドンダン堡塁、ハイフォンなどの北部の拠点ではフランス軍の激しい抵抗があったが、3月12日午後までに降伏。海軍艦艇も、日本海軍機の空襲や自沈、拿捕などで壊滅した。日本軍の損害は比較的軽微で、第37師団では戦死者189人、戦傷約300人だった。 投降したフランス軍は武装解除された。この際にランソンでは、歩兵第225連隊が、捕虜3,000人のうちフランス人将兵300余人と事前に逮捕していたルモニエ少将、ローベル大佐とその他幹部達を、「情勢は、極めて不穏緊迫し、非常事態に直面す」との判断で殺害した。別にハザンでも約50人の捕虜が殺害された。対照的に、ヴィンの陥落時には、捕虜の殺害を寸前で日本軍将校が制止したこともある。
※この「第1期作戦」の解説は、「明号作戦」の解説の一部です。
「第1期作戦」を含む「明号作戦」の記事については、「明号作戦」の概要を参照ください。
第1期作戦(漢水東岸)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 08:52 UTC 版)
5月1日から4日にかけて日本軍の各兵団は進撃を開始、漢水支流の唐白河(中文)河畔で包囲態勢をとることを目指して急進した。第3師団は泌陽、沘源を第39師団は棗陽をそれぞれ攻略し、10日ごろまでに各兵団は唐河・白河流域まで進出したが、中国軍は日本軍の進路の側方へ退避し終わっていた。ここまでの経過は、丁度1年前に行われた襄東会戦とほぼ同様の経過で戦われ、その際にはここで反転帰還していた。5月8日、日本軍は「第1期作戦の目的達成」として第2期作戦の準備に取り掛かった。
※この「第1期作戦(漢水東岸)」の解説は、「宜昌作戦」の解説の一部です。
「第1期作戦(漢水東岸)」を含む「宜昌作戦」の記事については、「宜昌作戦」の概要を参照ください。
- 第1期作戦のページへのリンク