クートの戦い
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クートの戦い またはクート包囲戦(トルコ語ではクッテル・アマラ攻囲戦 Kut'ül Ammare Kuşatması とも呼ばれる)は、第一次世界大戦における戦いのひとつ。クート(クート・エル・アマラあるいはクッテル・アマラ)に篭ったイギリス軍をオスマン帝国軍は包囲し、英軍救出部隊を阻止してこれを陥落させた。
- ^ 樋口正治 『自一九一四年至一九一八年 近東に於ける前大戦の考察』 p. 35, 105。タウンゼンドは、クートは戦略的要点であり、ここに停止することは2つの有利な点があると考えた。第1に、クートはイギリス軍の作戦根拠地から遠隔していない。第2に各方面からの交通の要点なので、この地点を占領すれば攻防いずれにも有利であると。彼はイギリス救援軍か、あるいはペルシャからロシア軍が少なくとも2月初句には来るものと信じていた。左は『自一九一四年至一九一八年 近東に於ける前大戦の考察』に拠るが、原典は彼の著書Townshend, Major General Sir Charls (1920). My Campaign in Mesopotamiaである。
- ^ Ron Wilcox. Battles on the Tigris: The Mesopotamian Campaign of the First World War, p. 80。チトラルとは今のパキスタンの一地区で、タウンゼンドは1895年守備に成功していた。
- ^ イラクのオスマン帝国第6軍を指揮していたのはドイツ人のフォン・デル・ゴルツ元帥であったが、イラク軍の作戦指導に関しては積極的、直接的任務を果たしていない。実際にオスマン帝国在イラク軍の作戦指導を行ったのはオスマン帝国軍将校ヌーレディン・ベイとハリル・ベイの両名であった。
- ^ 樋口正治『自一九一四年至一九一八年 近東に於ける前大戦の考察』pp. 165 - 168
- 1 クートの戦いとは
- 2 クートの戦いの概要
- 3 参考文献
クートの戦い
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クートは第一次世界大戦時にはクートの戦いが起き、激戦地となった。バスラから北進してきたチャールズ・タウンゼンド率いる英国メソポタミア遠征軍は1915年9月26日にクートに到着し、さらに北進してクテシフォンへと向かったが敗北して、再びクートへと撤退していた。これを追うオスマン帝国軍は、1915年12月7日にドイツのコルマール・フォン・デア・ゴルツの指揮の下、クートの包囲を開始した。英国騎兵ジェラルド・リーチマンらは包囲からの脱出に成功したものの、タウンゼンドをはじめとする大多数の兵は包囲下からの脱出に失敗し、1916年4月29日についに降伏した。降伏した兵士らはオスマン帝国の降伏まで重労働を課せられ、半数以上が死亡した。後に体勢を立て直した英国は1916年12月に再侵攻を開始し、1917年2月23日にはクートを奪回した。
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