クーデンホーフ=カレルギー伯爵と鹿島守之助とは? わかりやすく解説

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クーデンホーフ=カレルギー伯爵と鹿島守之助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 06:23 UTC 版)

鹿島守之助」の記事における「クーデンホーフ=カレルギー伯爵と鹿島守之助」の解説

リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー#鹿島建設会長鹿島守之助との親交」も参照 若かった頃、鹿島EU先駆者クーデンホーフ=カレルギー伯爵持論であるパン・ヨーロッパ論をベルリン読み感銘受けたクーデンホーフ=カレルギー伯爵交流深めるうちに伯爵からアジア地域統合である「パン・アジア」の提案があった。鹿島外交官辞めパン・アジアを旗印にして郷里兵庫4区から立候補し国会への進出試みたのは1930年であった。パン・アジア、パン・アジアと訴え出て郷里人々からは理解されずわずか3000票で落選今回当選したのは、前回衆院選でも兵庫4区当選した3人(原惣兵衛、元・衆議院副議長清瀬一郎13年議員務めてきた土井権大)と、兵庫県の他の選挙区過去2回当選していた田中武雄でありいずれも既に支持基盤のある手ごわい面子揃っていた。伯爵からは、何も失望することはない、地域統合時代流れ来ているから必ず実現するはずであると励まされた。 1943年鹿島第二次世界大戦における米国圧倒的戦力知り、また敗戦した場合日本の領土四島しか残らないことになるという米英考え知っていた。しかし戦闘的平和論クーデンホーフ=カレルギー伯爵同様、鹿島にも勇ましいところがあり、そのような敗戦処分国際的一大不正および罪悪ともいえるものである日本勝利のために戦わなければならない鹿島このように大政翼賛会調査局就任後1年ほど経過した時に報告書をまとめた。鹿島負け戦覚悟した上で、それでも戦うと言っていたのであり、海外日本占領地域勤務する自分会社社員本土へ早期撤収促したこの頃鹿島はパン・アジアと大東亜共栄圏同列に語るようになっていた。大東亜共栄圏建設鹿島20年来の持論であり、理想であり、それを説いた者はクーデンホーフ=カレルギー伯爵であると主張する帝国外交大東亜共栄圏』を、1943年6月翼賛図書刊行会から発行した鹿島日独伊三国同盟1940年9月前後に、クーデンホーフ=カレルギー伯爵最大の敵、ナチ指導者アドルフ・ヒトラー総統絶賛したこともあった。しかし鹿島冷戦最中生涯終えるまで伯爵尊敬し続け若かった外交官の頃と変わらずパン・アジアの平和を追求した戦後古参国会議員となってからも、その当選について「私は今も、パン・アジアを提唱しておりますが、これは東洋における伯爵勝利を意味するものでありますと言った。ただ、鹿島晩年秘書対し自身生きているうちにパン・アジアは実現しないであろうが、彼女は若いから実現見られるではなかろうか語った。 「私は生涯通じて他のいかなる人よりも、クーデンホーフ・カレルギーから多く政治上、思想上の影響受けた。私の思想なり行動なりは、彼の影響なくして考えられない」、これは1972年10月国際時評』に掲載され鹿島言葉である。鹿島クーデンホーフ=カレルギー伯爵著書で一番影響受けたといわれているのは1920年代書かれた「貴族」、「技術」、「平和主義に関する一連の論文であり、これらは1963年に『実践的理想主義』として鹿島研究所出版会から出版された。 ... このような期待され世界転換期到来するであろう。ただし、政治によらない技術によって到来するであろう。 ... 今日はどこかに無名のまま暮らしていても、いつかは前人未踏新しいエネルギー源発見して人類飢餓凍死強制労働から救い出すことに成功する人によって、その時機は到来するであろう。 — リヒャルト N. クーデンホーフ=カレルギー、『実践的理想主義: 貴族技術平和主義』 (翻訳: 鹿島守之助1963年鹿島研究所出版会 鹿島守之助戦後1951年米国により開始され新し技術原子力発電に熱心であった鹿島建設役員たちは原発リスク考え反対していたが、一人熱心な鹿島守之助社長原発産業への参入決定した原子力発電世界で既に大きな事故経験していた。1952年12月カナダチョーク・リバー研究所燃料棒溶融するINESレベル5原子力事故発生したのである鹿島建設日本原子力研究所第1号原子炉日本初原子炉として建設、その初臨界1957年夏に成功したとき、鹿島鹿島建設会長であったその頃ヨーロッパにおいてはクーデンホーフ=カレルギー伯爵パン・ヨーロッパ運動道筋をつけたヨーロッパの統合着々と前進し1958年欧州原子力共同体設立された。鹿島福島第一原子力発電所1号機鹿島建設による受注にも尽力した福島1号機着工後まもなく鹿島平和賞の授賞ということで、鹿島NHK友愛青年同志会の3者でクーデンホーフ=カレルギー伯爵1967年日本への旅に招待したこのように伯爵功績讃えることは鹿島にとって生涯忘れがたい喜びになった鹿島死去する前年1974年に孫の渥美直紀日本への原発導入ドン中曽根康弘の娘(当時NHKアナウンサー)と結婚した

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