クーデンホーフ=カレルギー伯爵と鹿島守之助
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「鹿島守之助」の記事における「クーデンホーフ=カレルギー伯爵と鹿島守之助」の解説
「リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー#鹿島建設会長・鹿島守之助との親交」も参照 若かった頃、鹿島はEUの先駆者クーデンホーフ=カレルギー伯爵の持論であるパン・ヨーロッパ論をベルリンで読み感銘を受けた。クーデンホーフ=カレルギー伯爵と交流を深めるうちに伯爵からアジアの地域統合である「パン・アジア」の提案があった。鹿島が外交官を辞めパン・アジアを旗印にして郷里の兵庫4区から立候補し、国会への進出を試みたのは1930年であった。パン・アジア、パン・アジアと訴え出ても郷里の人々からは理解されずわずか3000票で落選、今回当選したのは、前回の衆院選でも兵庫4区で当選した3人(原惣兵衛、元・衆議院副議長清瀬一郎、13年間議員を務めてきた土井権大)と、兵庫県の他の選挙区で過去2回当選していた田中武雄でありいずれも既に支持基盤のある手ごわい面子が揃っていた。伯爵からは、何も失望することはない、地域統合は時代の流れが来ているから必ず実現するはずであると励まされた。 1943年、鹿島は第二次世界大戦における米国の圧倒的戦力を知り、また敗戦した場合の日本の領土は四島しか残らないことになるという米英の考えを知っていた。しかし戦闘的平和論のクーデンホーフ=カレルギー伯爵同様、鹿島にも勇ましいところがあり、そのような敗戦の処分は国際的一大不正および罪悪ともいえるものである、日本は勝利のために戦わなければならない、鹿島はこのように大政翼賛会調査局長就任後1年ほど経過した時に報告書をまとめた。鹿島は負け戦を覚悟した上で、それでも戦うと言っていたのであり、海外の日本占領地域に勤務する自分の会社の社員に本土への早期撤収を促した。この頃、鹿島はパン・アジアと大東亜共栄圏を同列に語るようになっていた。大東亜共栄圏の建設が鹿島の20年来の持論であり、理想であり、それを説いた者はクーデンホーフ=カレルギー伯爵であると主張する『帝国の外交と大東亜共栄圏』を、1943年6月、翼賛図書刊行会から発行した。 鹿島は日独伊三国同盟(1940年9月)前後に、クーデンホーフ=カレルギー伯爵最大の敵、ナチ独指導者アドルフ・ヒトラー総統を絶賛したこともあった。しかし鹿島は冷戦の最中に生涯を終えるまで伯爵を尊敬し続け、若かった外交官の頃と変わらずパン・アジアの平和を追求した。戦後、古参の国会議員となってからも、その当選について「私は今も、パン・アジアを提唱しておりますが、これは東洋における伯爵の勝利を意味するものであります」と言った。ただ、鹿島は晩年、秘書に対し、自身が生きているうちにパン・アジアは実現しないであろうが、彼女は若いから実現を見られるのではなかろうかと語った。 「私は生涯を通じて他のいかなる人よりも、クーデンホーフ・カレルギーから多くの政治上、思想上の影響を受けた。私の思想なり行動なりは、彼の影響なくして考えられない」、これは1972年10月『国際時評』に掲載された鹿島の言葉である。鹿島がクーデンホーフ=カレルギー伯爵の著書で一番影響を受けたといわれているのは1920年代に書かれた「貴族」、「技術」、「平和主義」に関する一連の論文であり、これらは1963年に『実践的理想主義』として鹿島研究所出版会から出版された。 ... このような期待された世界転換期は到来するであろう。ただし、政治によらないで技術によって到来するであろう。 ... 今日はどこかに無名のまま暮らしていても、いつかは、前人未踏の新しいエネルギー源を発見して、人類を飢餓、凍死、強制労働から救い出すことに成功する人によって、その時機は到来するであろう。 — リヒャルト N. クーデンホーフ=カレルギー、『実践的理想主義: 貴族 – 技術 – 平和主義』 (翻訳: 鹿島守之助) 1963年、鹿島研究所出版会 鹿島守之助は戦後1951年に米国により開始された新しい技術、原子力発電に熱心であった。鹿島建設の役員たちは原発のリスクを考え反対していたが、一人熱心な鹿島守之助社長は原発産業への参入を決定した。原子力発電は世界で既に大きな事故を経験していた。1952年12月にカナダのチョーク・リバー研究所で燃料棒が溶融するINESレベル5の原子力事故が発生したのである。 鹿島建設は日本原子力研究所第1号原子炉を日本初の原子炉として建設、その初臨界が1957年夏に成功したとき、鹿島は鹿島建設の会長であった。その頃ヨーロッパにおいてはクーデンホーフ=カレルギー伯爵がパン・ヨーロッパ運動で道筋をつけたヨーロッパの統合が着々と前進し、1958年に欧州原子力共同体が設立された。鹿島は福島第一原子力発電所1号機の鹿島建設による受注にも尽力した。福島1号機の着工後まもなく鹿島平和賞の授賞ということで、鹿島・NHK・友愛青年同志会の3者でクーデンホーフ=カレルギー伯爵を1967年日本への旅に招待した。このように伯爵の功績を讃えることは鹿島にとって生涯忘れがたい喜びになった。鹿島が死去する前年の1974年に孫の渥美直紀は日本への原発導入のドン・中曽根康弘の娘(当時NHKアナウンサー)と結婚した。
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