その他の戦線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 09:07 UTC 版)
カフカース戦線(英語版)のサリカミシュの戦い(英語版)は1915年1月5日にオスマン帝国の大敗に終わった。シナイ半島とパレスチナ戦役(英語版)ではフリードリヒ・クレス・フォン・クレッセンシュタイン(英語版)率いるオスマン軍が1月末にスエズ運河に向けて攻勢に出たが失敗した(スエズ運河襲撃(英語版))。 1915年7月にはドイツ領南西アフリカの植民地守備隊 (Schutztruppe) が降伏し、南西アフリカ戦役(英語版)が終結した。 メソポタミア戦役(英語版)ではイギリス軍の進軍が11月22日から25日までのクテシフォンの戦い(英語版)で(実質的にはコルマール・フォン・デア・ゴルツ率いる)オスマン軍に阻止された。また、イギリス領インド軍の海外派遣部隊が12月7日にクートで包囲された。
※この「その他の戦線」の解説は、「第一次世界大戦」の解説の一部です。
「その他の戦線」を含む「第一次世界大戦」の記事については、「第一次世界大戦」の概要を参照ください。
その他の戦線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 09:07 UTC 版)
1917年初、イギリス軍はメソポタミア戦役(英語版)を再開してバグダードへの進軍を試み、2月23日にはクートに到着した(クートの戦い(英語版))。さらに雨季がはじまる前の3月11日にバグダードを占領(バグダード陥落(英語版))、オスマン軍はモースルに撤退した。バグダードが陥落したことで東方における計画(バグダード鉄道など)が危うくなり、オスマン帝国ら中央同盟国は打撃を受けた。その結果、ドイツ軍はファルケンハインを任命して、エンヴェル・パシャとともにジルデリム (Jilderim) をコードネームとするバグダード再占領計画を準備した。 1917年6月29日、ギリシャ王国が連合国側で参戦した。連合国軍が1915年末にギリシャに上陸した以降、ギリシャ政界は分裂して、連合国を支持するエレフテリオス・ヴェニゼロスの暫定革命政府と、ドイツを支持する国王コンスタンティノス1世の両派に分けた。英仏の介入が日に高まったことにより、ヴェニゼロス側が優勢になり、さらに首都アテネを含むギリシャ国内の全ての戦略要地が連合国軍に占領され、フランスのシャルル・ジョナール(英語版)から最後通牒が突き付けられるにあたって、コンスタンティノス1世は1917年6月に退位、亡命した。ヴェニゼロスはテッサロニキからアテネに帰還、1915年に選出された国会を召集、政府を組織してすぐに中央同盟国に宣戦布告した。コンスタンティノス1世の息子アレクサンドロス1世が国王に即位した。 イタリア戦線では8月17日から9月12日まで第十一次イゾンツォの戦いが起き、オーストリア=ハンガリー軍が間一髪で大敗を回避した。オーストリア=ハンガリー皇帝カール1世はイタリアの次の攻勢に耐えられないことを危惧して、オーストリア軍最高司令部とともにドイツに支援を要請した。ドイツは第14軍(英語版)(アルペン軍団(英語版) (Alpenkorps) 含む)を再編成してオーストリア=ハンガリーに派遣した。こうして、中央同盟国は先制攻撃を仕掛け、10月24日にカポレットの戦いで攻勢に出た。中央同盟国は突破に成功して11日間で130km進み、ヴェネツィアまで後30kmのところまで進軍した。イタリア軍は305,000人以上を失い(うち265,000人は捕虜)、中央同盟国は7万人の損害を出した。中央同盟国の成功は主にドイツのエルヴィン・ロンメル、そして浸透戦術の功労だった。イタリア軍の戦線がようやく安定したのはピアーヴェ川とモンテ・グラッパまで撤退したときであり、連合国からもイギリス軍5個師団とフランス軍6個師団が援軍として派遣されてきた。イタリアではストライキや兵士の大量脱走などがおきたが、「侵略戦争が防衛戦争に変わった」ことで革命前夜のような情勢は解消された。カポレットの敗北により連合国は11月7日にラパッロで会議(英語版)を開き、またイタリアでは総指揮官のルイージ・カドルナが更迭され、アルマンド・ディアズが任命された。 1917年最後の大規模な攻勢はシナイ半島・パレスチナ戦役で行われ、軍事史上最後の大規模な騎兵突撃となった。1917年10月31日、エドマンド・アレンビー率いるオーストラリアの第4軽騎兵旅団(英語版)とイギリスの第5騎兵旅団(英語版)はオスマン軍とドイツ軍が占領していたベエルシェバに攻撃をかけ、占領に成功した(ベエルシェバの戦い(英語版))。ファルケンハインは11月5日にエルサレムに移って死守しようとしたが、最高司令部は聖地エルサレムが破壊された場合の世論への影響を鑑みて撤退を命じた。その結果、トーマス・エドワード・ロレンス率いるアラブ反乱軍の進撃は12月9日に終結し、イギリス軍によるエルサレムの無血占領に終わった。
※この「その他の戦線」の解説は、「第一次世界大戦」の解説の一部です。
「その他の戦線」を含む「第一次世界大戦」の記事については、「第一次世界大戦」の概要を参照ください。
- その他の戦線のページへのリンク