バグダード陥落 (1258)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 07:07 UTC 版)
「フランクとモンゴルの同盟」の記事における「バグダード陥落 (1258)」の解説
詳細は「バグダードの戦い」を参照 イスラム教の開祖ムハンマドの叔父アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブの玄孫にあたるサッファーフ (アブー・アル=アッバース・アブドゥッラー・イブン・ムハンマド・アッ=サッファーフ) によって設立されたアッバース朝は、749年の建国以降、アフリカ北東部、アラビア半島、近東地域を支配していたが、1258年の時点ではイラク中部の領域のみに縮小していた。バグダードはイスラムの宝石と讃えられ、世界で最も大きく最も強力な都市の1つであると考えられ、ほぼ500年間、アッバース朝のカリフの権力の座はバグダードに存在した。しかし、バグダードはモンゴルの攻撃を受けて1258年2月15日に陥落し、このことはイスラム世界においてしばしばイスラーム黄金時代の終焉としてイスラム史上の唯一の破滅的出来事と考えられた。キリスト教国のジョージア軍が城壁を破った最初の軍で、「彼らの破壊は特に凄まじかった」と後世の歴史家スティーヴン・ランシマンによって記述されている。フレグがバグダードを征服した際、モンゴル軍は建物を破壊し尽くし、近隣の全てを燃やし、ほぼ全ての男、女、子供たちを大虐殺した。しかし、正妃ドクズ・ハトゥンの仲裁で、キリスト教系住民は助けられた。 アジアのキリスト教徒にとって、バグダードの陥落は祝うべき事態だった。フレグとキリスト教信者である正妃は、キリスト教の敵に対抗する神の使徒と思われるようになり、キリスト教会の象徴として位置づけられる、4世紀のローマ帝国においてキリスト教を公認したことでキリスト教の伝播に非常に強い影響力を及ぼしたコンスタンティヌス1世と、敬愛された彼の母 (皇太后) の聖ヘレナに比肩された。アルメニアの歴史家ギャンジャのキラコス(英語版)はアルメニア教会のための聖句でモンゴル王室のカップルを称賛した。また、シリア正教会の司教で文学者、歴史家でもあるバル・ヘブライウス(英語版)もまた、彼らをコンスタンティンとヘレナと称し、フレグについて「知恵と気高さと輝かしい功績」で並ぶ者のない「王の中の王」であると述べている。
※この「バグダード陥落 (1258)」の解説は、「フランクとモンゴルの同盟」の解説の一部です。
「バグダード陥落 (1258)」を含む「フランクとモンゴルの同盟」の記事については、「フランクとモンゴルの同盟」の概要を参照ください。
- バグダード陥落のページへのリンク