キリスト教の伝播とは? わかりやすく解説

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キリスト教の伝播

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/08 06:16 UTC 版)

アエギュプトゥス」の記事における「キリスト教の伝播」の解説

詳細は「アエギュプトゥスのキリスト教化」を参照 アエギュプトゥス歴史大きく影響した出来事のひとつが、キリスト教広まったことである。エジプトキリスト教徒の間では、アレクサンドリア教会福音記者マルコ33年頃に創設した信じられている。しかし実際には、アエギュプトゥスキリスト教いかにして伝わったのかは、ほとんどわかっていない。聖書学者ヘルムート・コエスター(en: Helmut Koester)は、いくらか資料手がかりに、アエギュプトゥス伝わったキリスト教当初グノーシス主義に強い影響受けていたが、アレクサンドリアデメトリウスen:Demetrius of Alexandria)によって一般的なキリスト教信仰変わった、と説明している。キリスト教伝わった初め1世紀について記録少ないことは、当初グノーシス主義異端みなされていることが原因考えると説明できるが、一方では、このような記録の空白ローマ史に多いことなので特別ではないという意見もある。 アエギュプトゥスでは過去宗教をめぐる争い起きていたので、ローマ人支配者達は、新たな宗教争い巻き起こしかねないキリスト教当初厳しく迫害した。それでも間もなくキリスト教は特にアレクサンドリアユダヤ人の間に、信者増やしていった。キリスト教はまずユダヤ人伝わりユダヤ人からギリシア人に、そして現地エジプト人にも広まったエジプト人、特に下層階級人々は、ギリシアローマ厳し支配によって自然崇拝古来宗教への信頼無くしていたと思われ、「全ての人は神の前では平等で救済される」というキリスト教教え魅力感じた。この結果200年頃までにアレクサンドリアキリスト教中心地のひとつに発展したキリスト教著名な神学者弁証学者)であるアレクサンドリアのクレメンスオリゲネスは、ともにこの街で生まれこの街で生涯多く過ごし著作記し教え広め議論したローマ皇帝デキウス治世250年キリスト教は再び迫害受けたが、それでも信者増えていった。また、ディオクレティアヌス帝は303年禁令発しキリスト教は再び迫害時期迎えたが、これが本格的な迫害最後となったローマ皇帝コンスタンティヌス1世312年発したミラノ勅令 により、キリスト教迫害終わりを告げた4世紀通じてキリスト教地位高め修道士パッラディウス(en:Palladius)が著述たようにその他の宗教信者減っていった。そして390年には、国教となったキリスト教以外の異教禁じ勅令発令された。ただし、エジプト南部フィラエ神殿に残る落書きなどを見ると、異教崇拝隠れて残り5世紀になって女神イシス祭られていることがわかる。アエギュプトゥスに住むユダヤ人多くキリスト教徒になったが、国教拒み改宗しなかったユダヤ人もまたかなり多く残っていた。 キリスト教会公認され自由に活動できるうになると、今度シスマ教会内部分裂)に悩まされることになったシスマ長期にわたり、これを原因とした内乱まで起きたアレクサンドリア司祭アリウス新し教説にしたがってアリウス派呼ばれる一派広がり、これがアタナシオスを代表とする通説派と反目しあった。これは世界的に見て初めての大分裂であり、第1ニカイア公会議開かれアリウス派思想異端みなされることに決定し会議翌年326年)にアタナシオスアレクサンドリア司教任命された。アリウス派争議によって、4世紀の間は暴動繰り返され異教徒拠点としていたセラピス大神殿破壊されたりした。司教アタナシオスも、アレクサンドリアからの追放復職を5~7回も繰り返したアエギュプトゥスにはいわゆる正統派キリスト教根付き難くアリウス派広まっただけでなく、グノーシス主義マニ教などの異端信仰も、あるものは現地発生し、またあるものは外部から導入され信者集めた。またアエギュプトゥスでは、砂漠の父(en:Desert Fathers)と呼ばれるキリスト教全て捧げるために修道院貧困生活を送るような宗教活動方法生まれ育ったアエギュプトゥスあまりに多くキリスト教徒修道院生活始めたので、ローマ皇帝ウァレンス364年-378年)は修道僧人数制限加えなければならなかった。修道院生活というキリスト教活動は、アエギュプトゥスから世界中伝わっていった。さらに同じ時期には、古代エジプト語一種であるコプト語発達したコプト語は、ギリシア文字エジプト語独特の発音を表すいくつかの記号補った文字書かれる言葉で、ギリシア魔術書呼ばれる異教魔術書にある呪文正しく発音するために発明された。このコプト語が、初めの頃とのキリスト宣教者が現地エジプト人に福音言葉伝えるために利用され、やがてアエギュプトゥスキリスト教礼拝式の言葉となり、現在でも使われている。

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キリスト教の伝播

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/01 04:39 UTC 版)

スコットランドの歴史」の記事における「キリスト教の伝播」の解説

スコットランドキリスト教の歴史英語版)」も参照 ローマ帝国ブリタンニアから撤退したとき、スコットランドは、大別してふたつのグループ分かれていた。 ピクト人ケルト系ともいわれるが、民族的起源わかっていない。クライド川以北フォース湾(ピクタヴィアと呼ばれる地域)に勢力を張っていた。 ローマ影響受けたブリトン人フォース湾の南にあったストラスクライド王国英語版)(5世紀-11世紀)、カンブリアのレッジド王国英語版)(古英語: Rheged)などの国およびボーダーズ英語版)のセルゴヴァエ族(英語版)(古英語: Selgovae)、ヴォタディニー族(英語版)、ゴドヅィン族(古英語: Gododdin)などである。 さらに、3つのグループからなる民族スコットランド渡ってきた。これらの民族どこから来たかについてはわかっていない。 古アイルランド語を使うゲール人なかでもダルリアダ人が5世紀後半ごろアイルランドから渡ってきた。かれらはアウタ・ヘブリディーズ諸島(Outer Hebrides)およびスコットランド西岸地域ダルリアダ王国建設したイングランド北東部バーニシア王国古英語: Bernicia)およびヨーロッパ大陸から広がってきたアングロ・サクソン人7世紀ゴドヅィン族を征服した民族で、ゲルマン的なスコットランド語話した。かれらの言語イングリス(Inglis中世英語)とよばれているが、その述語14世紀後半以降アングロ・ノルマン語が英語の影響受けて変化したのであるかつてはスコティス(Scottis)とよばれたスコットランド・ゲール語イングリスにとって替わりアイルランドなどで使われるようになった。しかし、昨今ゲール語使われている。 795年以降ヴァイキングアイオナ島にやってきた。かれらスカンジナビア出身オークニー貴族Jarl)たちはアウタ・ヘブリディズ諸島スコットランド北端のケイスネス・サザランドを支配下におさめ、先住民族混血進んだ最初にスコットランドキリスト教もたらしたのは、聖ニニアンである。彼はフォース湾沿岸部根拠地にして南部東部スコットランド布教活動行った。しかし、聖パトリックコルンバ残した記録によればキリスト教聖ニニアンの死(432年)からコルンバスコットランド布教開始563年)の間に忘れられしまっていた。ゲール人は、スコットランドピクト人にふたたびキリスト教布教行い、しだいにケルト神話忘れられていった。この時期もっとも有名な宣教師であるコルンバは、スコットランドアイオナ島辿りついてアイオナ修道院建てたキリスト教は、ピクト人の王ブライディ1世英語版)のキリスト教への改宗がひとつの転換点となって広まったとも主張されているが、この点については異論もある。

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