キリスト教の伝播
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「アエギュプトゥス」の記事における「キリスト教の伝播」の解説
詳細は「アエギュプトゥスのキリスト教化」を参照 アエギュプトゥスの歴史に大きく影響した出来事のひとつが、キリスト教が広まったことである。エジプトのキリスト教徒の間では、アレクサンドリア教会は福音記者マルコが33年頃に創設したと信じられている。しかし実際には、アエギュプトゥスにキリスト教がいかにして伝わったのかは、ほとんどわかっていない。聖書学者ヘルムート・コエスター(en: Helmut Koester)は、いくらかの資料を手がかりに、アエギュプトゥスに伝わったキリスト教は当初はグノーシス主義に強い影響を受けていたが、アレクサンドリアのデメトリウス(en:Demetrius of Alexandria)によって一般的なキリスト教信仰に変わった、と説明している。キリスト教が伝わった初めの1世紀について記録が少ないことは、当初のグノーシス主義が異端とみなされていることが原因と考えると説明できるが、一方では、このような記録の空白はローマ史に多いことなので特別ではないという意見もある。 アエギュプトゥスでは過去に宗教をめぐる争いが起きていたので、ローマ人支配者達は、新たな宗教争いを巻き起こしかねないキリスト教を当初は厳しく迫害した。それでも間もなく、キリスト教は特にアレクサンドリアのユダヤ人の間に、信者を増やしていった。キリスト教はまずユダヤ人に伝わり、ユダヤ人からギリシア人に、そして現地エジプト人にも広まった。エジプト人、特に下層階級の人々は、ギリシアとローマの厳しい支配によって自然崇拝の古来宗教への信頼を無くしていたと思われ、「全ての人は神の前では平等で救済される」というキリスト教の教えに魅力を感じた。この結果、200年頃までにアレクサンドリアはキリスト教の中心地のひとつに発展した。キリスト教の著名な神学者(弁証学者)であるアレクサンドリアのクレメンスとオリゲネスは、ともにこの街で生まれ、この街で生涯の多くを過ごし、著作を記し、教えを広め、議論した。 ローマ皇帝デキウス治世の250年、キリスト教は再び迫害を受けたが、それでも信者は増えていった。また、ディオクレティアヌス帝は303年に禁令を発し、キリスト教は再び迫害の時期を迎えたが、これが本格的な迫害の最後となった。ローマ皇帝コンスタンティヌス1世が312年に発したミラノ勅令 により、キリスト教の迫害は終わりを告げた。4世紀を通じてキリスト教は地位を高め、修道士パッラディウス(en:Palladius)が著述したように、その他の宗教の信者は減っていった。そして390年には、国教となったキリスト教以外の異教を禁じる勅令が発令された。ただし、エジプト南部のフィラエ神殿に残る落書きなどを見ると、異教崇拝は隠れて残り、5世紀になっても女神イシスが祭られていることがわかる。アエギュプトゥスに住むユダヤ人の多くはキリスト教徒になったが、国教を拒み改宗しなかったユダヤ人もまたかなり多く残っていた。 キリスト教会が公認され自由に活動できるようになると、今度はシスマ (教会の内部分裂)に悩まされることになった。シスマは長期にわたり、これを原因とした内乱まで起きた。アレクサンドリアの司祭アリウスの新しい教説にしたがってアリウス派と呼ばれる一派が広がり、これがアタナシオスを代表とする通説派と反目しあった。これは世界的に見ても初めての大分裂であり、第1ニカイア公会議が開かれてアリウス派の思想は異端とみなされることに決定し、会議の翌年(326年)にアタナシオスがアレクサンドリアの司教に任命された。アリウス派の争議によって、4世紀の間は暴動が繰り返され、異教徒が拠点としていたセラピスの大神殿も破壊されたりした。司教アタナシオスも、アレクサンドリアからの追放と復職を5~7回も繰り返した。 アエギュプトゥスにはいわゆる正統派のキリスト教は根付き難く、アリウス派が広まっただけでなく、グノーシス主義やマニ教などの異端の信仰も、あるものは現地で発生し、またあるものは外部から導入されて信者を集めた。またアエギュプトゥスでは、砂漠の父(en:Desert Fathers)と呼ばれる、キリスト教に全てを捧げるために修道院で貧困生活を送るような宗教活動の方法が生まれ育った。アエギュプトゥスであまりに多くのキリスト教徒が修道院生活を始めたので、ローマ皇帝ウァレンス(364年-378年)は修道僧の人数に制限を加えなければならなかった。修道院生活というキリスト教活動は、アエギュプトゥスから世界中に伝わっていった。さらに同じ時期には、古代エジプト語の一種であるコプト語が発達した。コプト語は、ギリシア文字にエジプト語独特の発音を表すいくつかの記号を補った文字で書かれる言葉で、ギリシア魔術書と呼ばれる異教の魔術書にある呪文を正しく発音するために発明された。このコプト語が、初めの頃とのキリスト宣教者が現地エジプト人に福音の言葉を伝えるために利用され、やがてアエギュプトゥスのキリスト教の礼拝式の言葉となり、現在でも使われている。
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キリスト教の伝播
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「スコットランドの歴史」の記事における「キリスト教の伝播」の解説
「スコットランドのキリスト教の歴史(英語版)」も参照 ローマ帝国がブリタンニアから撤退したとき、スコットランドは、大別してふたつのグループに分かれていた。 ピクト人:ケルト系ともいわれるが、民族的起源はわかっていない。クライド川以北とフォース湾(ピクタヴィアと呼ばれる地域)に勢力を張っていた。 ローマの影響を受けたブリトン人:フォース湾の南にあったストラスクライド王国(英語版)(5世紀-11世紀)、カンブリアのレッジド王国(英語版)(古英語: Rheged)などの国およびボーダーズ(英語版)のセルゴヴァエ族(英語版)(古英語: Selgovae)、ヴォタディニー族(英語版)、ゴドヅィン族(古英語: Gododdin)などである。 さらに、3つのグループからなる民族がスコットランドに渡ってきた。これらの民族がどこから来たかについてはわかっていない。 古アイルランド語を使うゲール人、なかでもダルリアダ人が5世紀後半ごろアイルランドから渡ってきた。かれらはアウタ・ヘブリディーズ諸島(Outer Hebrides)およびスコットランド西岸地域にダルリアダ王国を建設した。 イングランド北東部バーニシア王国(古英語: Bernicia)およびヨーロッパ大陸から広がってきたアングロ・サクソン人。7世紀ゴドヅィン族を征服した民族で、ゲルマン的なスコットランド語を話した。かれらの言語はイングリス(Inglis、中世英語)とよばれているが、その述語は14世紀後半以降アングロ・ノルマン語が英語の影響を受けて変化したものである。かつてはスコティス(Scottis)とよばれたスコットランド・ゲール語がイングリスにとって替わり、アイルランドなどで使われるようになった。しかし、昨今はゲール語が使われている。 795年以降ヴァイキングがアイオナ島にやってきた。かれらスカンジナビア出身のオークニー貴族(Jarl)たちはアウタ・ヘブリディズ諸島、スコットランド北端のケイスネス・サザランドを支配下におさめ、先住の民族と混血が進んだ。 最初にスコットランドにキリスト教をもたらしたのは、聖ニニアンである。彼はフォース湾沿岸部を根拠地にして南部・東部スコットランドで布教活動を行った。しかし、聖パトリックやコルンバの残した記録によれば、キリスト教は聖ニニアンの死(432年)からコルンバのスコットランド布教開始(563年)の間に忘れられてしまっていた。ゲール人は、スコットランドのピクト人にふたたびキリスト教布教を行い、しだいにケルトの神話は忘れられていった。この時期もっとも有名な宣教師であるコルンバは、スコットランドのアイオナ島に辿りついてアイオナ修道院を建てた。キリスト教は、ピクト人の王ブライディ1世(英語版)のキリスト教への改宗がひとつの転換点となって広まったとも主張されているが、この点については異論もある。
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