どこから来たか
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/03 14:26 UTC 版)
ひとつの説としては、このビーカー自体はポルトガルで発明された可能性があるものの、この文化(的な水平分布域)はもともと、インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパ侵入拡大時期の文化と推定される縄目文土器文化の広がりの西端だった場所、おそらくライン川上流からオランダ南部あたりにわたる地域から始まったと見られており、そのためインド・ヨーロッパ語族の西や南への拡大と関連があると考えられている。これはマリヤ・ギンブタスのクルガン仮説に沿っており、中央ヨーロッパに侵入・定着した球状アンフォラ文化(インド・ヨーロッパ語族の「第二の原郷」と見なされる、非常に重要な意味を持つ文化)に始まり、そこから発して東西に大きく広がった縄目文土器文化を契機にインド・ヨーロッパ語族がヨーロッパ西部・北部・南部に次第に勢力を拡大していったという経緯を仮定している。 また別の説としては、たとえばひとつにはギンブタス自身が唱えているものがある。これは中央ヨーロッパ東部から侵入したインド・ヨーロッパ語族のうちの、おそらく訛りがサテム化しなかった言語の話し手の集団が、縄目文土器文化の地域でなくカルパティア山脈よりも南の地域を経てライン川上流域に達し、西ヨーロッパや南ヨーロッパにこのビーカーの文化を広めたとするものである。たしかに、この文化の初期の担い手の中核と考えられる人々の定住跡とはっきりと同定できる遺跡はまだ見つかっておらず、逆に貧弱な構造の建物跡ばかりが見つかることから、この人々は頻繁に住地を変えて放浪して回る性質をもつ、文化的統一性の高い民族的集団の類であったとも推測される。彼らはこのビーカーとそれに付随する各種金属工芸品をあちこちに広めたが、必ずしもこの形式のビーカーを発明したとは限らない。 鐘状ビーカーは、アイルランドやイベリア半島などでは馬、太陽崇拝、武具、原始的な金属工芸品といったものと意味の上で深く結びついていることが多く、こういった感覚はインド・ヨーロッパ語族の文化に特有であると考えられる。形質人類学の立場からは、ビーカー文化の初期の中核的担い手の人々には、東方のステップ地帯からやってくる人々に特有の身体的特徴が見られるという指摘がある。また、彼らが放浪民であったとする立場を採る人は、この放浪民の痕跡こそが、インド・ヨーロッパ語族(おそらくはケルト語派のうちのひとつないし複数の言語の話し手たち)による、当時は非インド・ヨーロッパ語族の古い言語が話されていたとみられるブリテン諸島を含む西ヨーロッパ一帯やイベリア半島への最初の進出を示すものとしている。 近年の古代DNA解析からは、ドイツの鐘状ビーカー人には印欧語系ハプログループR1b (Y染色体)が見られるのに対し、スペインの鐘状ビーカー人にはR1bがみられず、より以前の巨石文化の担い手であるハプログループG2a、ハプログループI2aが検出されたことから、鐘状ビーカー人は単一の民族集団ではなかったとされている。
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