鐘状ビーカー文化
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鐘状ビーカー文化(かねじょうビーカーぶんか、英語:Bell-beaker culture、あるいはビーカー文化、Beaker culture、広口杯文化、さらにはビーカー民、Beaker folk/Beaker people)は紀元前2600年ごろから紀元前1900年ごろまでの、後期新石器時代から初期青銅器時代にかけて広がっていた、鐘状ビーカーと呼ばれる独特の大型広口杯の水平分布域(cultural horizon)。「文化」とつくが、単一の文化圏ではない。
注釈
出典
- ^ Map after Encyclopedia of Indo-European Culture (1997)
- ^ “The story about the Nordic civilization”. Cradle of Civilization (2015年3月17日). 2017年7月9日閲覧。
- ^ Case, H (2007). 'Beakers and Beaker Culture' Beyond Stonehenge: Essays on the Bronze Age in honour of Colin Burgess. Oxford: Oxbow.
- ^ Mallory & Adams (1997)
- ^ Eupedia
- 1 鐘状ビーカー文化とは
- 2 鐘状ビーカー文化の概要
- 3 同時代の主な文化
ビーカー文化
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紀元前2600-1900年ごろを指す。だいたい紀元前2600年より後のいずれかの時期に、ブリテン島にビーカー人がはじめて渡来してきた。ビーカー人は銅器(のちには青銅器)と鐘状ビーカーを扱う人々で、定住跡がなく、住居跡はどれも臨時に作られたものばかりであることから、流浪の民であったと推定される。彼らは鋳掛屋、鋳物師、交易商人などとしてブリテン諸島各地を渡り歩きながら、ビーカーや金属製品を普及させた。ビーカー人は特に、金装飾に高い技術を持っていた。火葬が行われ、ビーカーとともに埋葬された。 彼らが各地の先住民とこのような交流を行うにつれて、ブリテン諸島全体に商品経済の概念が普及した。銅器は武器・農耕機具に使われ、労働生産性の向上とともに、ビーカー人の領域拡大を助けた。ただ、労働生産性の向上はその定義によって、労働分配率の低下と同義である。一部の人々が個人的な富の蓄積を増大するようになり、地元住民の間で富の格差が拡大した。これは各地の社会の垂直構造の確立につながり、ブリテン諸島は部族国家群的な社会となっていった。 ビーカー人は同時に戦士でもあった。当初は単なる流浪の民であり、先住民の住む各地を回って細々と商売をしていたとみられるビーカー人たちは、時代が下るごとに先住民の社会を経済的手段ないし軍事的手段で同化吸収し、彼らの社会構造はブリテン諸島全体を支配するようになった。
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