どこからが始まりか?
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 07:02 UTC 版)
「ニューミュージック」の記事における「どこからが始まりか?」の解説
言葉の発祥がいつからかはっきりしないため、本来どの曲を最初にするのかは不明なのだが、実際は文献にどこからかは色々書かれている。その始まりは1972年の吉田拓郎『結婚しようよ』を、始まりとすることが多い。1980年立風書房発行『ニューミュージック′80 すばらしき仲間たち』では「ニューミュージックの原点を支えるアーティスト12」という節で冒頭に吉田拓郎を紹介している。1980年学習研究社発行『NEW MUSIC'81 ニューミュージック事典』では「今日のニューミュージックに関するすべての状況は『結婚しようよ』のヒットから始まった」。1993年シンコーミュージック発行『日本のフォーク&ロック・ヒストリーー② ニューミュージックの時代』では「1972年1月の吉田拓郎『結婚しようよ』のヒット」からニューミュージック年表が始まっている。相倉久人は「ニューミュージックというのがプログラムに上がり始めたのが『結婚しようよ』あたりからでした」と述べている。2007年青弓社発行『テレビだョ!全員集合』では「"ニューミュージック"という呼称がどこからきたものかは諸説あって判然としないが、その前提にフォークソングの浸透があったことは確かである。1972年の吉田拓郎の『結婚しようよ』のヒットは、フォークを世間に認知させるきっかけになると同時に、メッセージ性を柱とするフォークを支持するそれまでの立場からは批判の的になった。だがさらに翌年のかぐや姫『神田川』のヒットによって、その流れはいっそうはっきりしたものになる。そして同時期に活躍を始める井上陽水や荒井由実とともにこれらのミュージシャンの音楽が"ニューミュージック"と呼ばれるようになっていくのである」と論じている。『日経エンタテインメント!』は、2000年2月号の特集「J-POPの歴史をつくった100人」の中で、"ニューミュージック"どころか、"J-POP"の起源を吉田拓郎と井上陽水に決めて"J-POP"の歴史を論じている。 矢沢保は「音楽の世界」1977年6月号の「歌はどこへいくのか?ニューミュージックをめぐって」という評論で「ニューミュージックというのは70年代になって発生してきたものであり、特に70年代前半の大きな大衆音楽の特徴だった。それは72年に吉田拓郎の連続ヒットによって幕が切って落されたとみてよいだろう。『結婚しようよ』『旅の宿』がそれに当たる。広島フォーク村出身の拓郎は、高石・岡林なきあとの空白期に若さとエネルギッシュな歌で若者の人気を集めた後、CBSソニーというメージャー・レコードに引き抜かれて、完全にポップス化した『結婚しようよ』、歌謡フォークのはしりともいうべき四畳半的日本趣味の『旅の宿』と大きく変身して、広範な層にアピールし、その人気を不動のものにした。それが拓郎の亜流をゴマンと生み、井上陽水、小椋佳と続いていく。『襟裳岬』のヒットした75年はついに日本の歌謡界は膨大なフォーク勢に席巻され顔色なしであった。『襟裳岬』ほど、いろんな意味で象徴的だった歌はないが、これを作ったのは『旅の宿』の岡本おさみ・吉田拓郎のコンビだった。『襟裳岬』以降、歌謡曲は大きく変貌を遂げ、内容もスタイルもニューミュージックの手法を取り入れるようになった」などと論じている。 『週刊平凡』編集部は、1978年5月4日号の「ニューミュージック徹底研究 2つのクロスオーバーがはじまった! 歌謡曲との違いは、どこにあるのか...」という記事で「ニューミュージックの発端は、吉田拓郎にはじまる。彼は広島から彗星のごとくに登場、『結婚しようよ』の大ヒットを飛ばし、レコード業界にセンセーションを巻き起こした。吉田拓郎が敷いたレールの上を、井上陽水、南こうせつ、小椋佳、松任谷由実、さだまさし、アリスといった現在のニューミュージックを支える人たちが走りはじめたといえるだろう。過去、歌謡界の人たちはニューミュージックの人たちをマイナー、自分たちをメイジャー、ニューミュージックの人たちは自分たちをアーチスト、歌謡界の歌手たちをタレントと、お互いの優越感に裏付けされた呼び名で呼んで、一線を画してきた。若い世代の支持を受けてはっきりと音楽の世界に定着しはじめたニューミュージックが転機を迎えたのは、昭和49年、『襟裳岬』のレコード大賞受賞であった。吉田拓郎の作曲によるこの歌をヒットさせたのは演歌歌手・森進一であった。つづいて、翌年、小椋佳作詞作曲、布施明が歌った『シクラメンのかほり』がレコード大賞を受賞。これらの出来事は、既成の歌謡界がニューミュージックの持つ新鮮なさまざまな要素を自分の中に取り入れざるをえなかったことを示している。ニューミュージックは、ここではじめてマイナーからメイジャーへ、たんなる音楽から芸能へと参加することになる。このとき既成の歌謡界は、阿久悠などの一部の作家を除いては若い世代の感覚をその詞の世界でも表現しきれなくなっていた。また、ニューミュージックの世界でも、自分たちが芸能界に作り上げた砦であるレコード・レーベル(フォーライフなど)やプロダクションを維持するための金が必要になってきたのである。彼らは互いに自分たちの必要から、次第に妥協しはじめる。そしてニューミュージックのアーチストたちが持っていた旧来の芸能界に見られなかったさまざまな側面も変化してゆく。テレビにも出演するようになる。それなりの衣装を着て歌う者も現れる。マスコミの取材にも快く応じる。その代わりに、彼らの作った歌は、本来の自分でうたうという姿勢から離れ、歌謡界の歌手たちによって争ってうたわれる状況になってくる。この二つの世界は、いまや完全にクロスオーバーしているといっても過言ではない。今年に入って登場した原田真二は、シンガー・ソングライターでありながらアイドル歌手でもある、といった完全なニューミュージックと歌謡界の混血児(原文まま)の形をとっている」などと論じている。 同じ『週刊平凡』編集部は、二年後の1980年1月3日/1月10日合併号「'80年代ニューミュージックの歌手で生き残るのはこの人! 松山千春や原田真二は? 中島みゆきは?」という記事で「7年ほど前、吉田拓郎などによって巻き起こされたニューミュージックの旋風は、'79年も音楽界にさまざまな話題を投げかけた。いまや彼らは、歌謡界の動向を支配するほどまでになったといっていい。'78年~'79年にかけて、ニューミュージック系の歌が、レコード売り上げベスト10の1位から10位まで独占するという週もめずらしくなかった。なぜ、ニューミュージックが若者たちの間に、これほどまで大きな支持を得るようになったかを振り返ってみると、まず彼らが出現するまでは歌手というと、きらびやかな舞台衣装、あるいは男ならタキシード、女ならロングドレスなどでステージに上がるものと決まっていた。それをニューミュージックの人たちは、街の若者のスタイルそのままのジーパン姿で若者の心を歌うという型破りのステージを作った。またテレビに出演することを第一の目標としている芸能人が多いなかで、そのテレビ出演を拒否したことも、若者たちから支持された最初の契機だった。世におもねないその姿勢が"かっこよかった"のである。もちろん、その姿勢ばかりでなく、彼らがうたう詞も曲も、いままでの日本音楽にない新しさがあり、洋楽のセンスを取り入れたサウンド作りが、現代の若者にぴったりだということもあった」などと論じている。 松任谷由実は著書『ルージュの伝言』(1984年、角川書店)の中で「ニューミュージックって言葉は嫌いなんだけど、まあこういう音楽は私がはじめたわけでしょう。私、ゼロからはじめたんだもの。だから過去のものとは較べようがない」などと述べている。また、この後続く松任谷の話は「"四畳半フォーク"、"有閑階級サウンド"、"中産階級サウンド"も私の命名。それを富澤一誠とかが使い出して、そのうち浸透した。坂本龍一にそういったらテクノポップって言葉はぼくがつくったんだと言ってた。インパクトのある言葉なら、すぐに浸透する。吉田拓郎は名前しか知らなかった、だんだん騒がれ出して(自身が) "女拓郎" とかいわれるようになったから聴いたが、私のやったことは拓郎やかぐや姫とは違う。私のつくった曲は今までにないまったく新しいもの」などと述べている。 松任谷は『月刊平凡』1976年5月号のインタビューで「音楽は趣味でやってます。ブルジョアだから悪いってことない。私の音楽はイージーリスニング。BGMみたいなもの。朝起きたとき、夜寝る前に、ふっとかけてみたくなるような音楽がつくれたら」と話している。
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