金属工芸
金属工芸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 13:27 UTC 版)
フランク族を含むゲルマン人たちはローマ帝国時代から金属工芸を得意とし、高い技術水準を誇っていた。フランクの美術はこうしたゲルマン古来の美術と、ローマの影響の中で形成されていった。フランク族にまつわる美術工芸品の中で確実に年代(482年以前)がわかる最古のものは、1653年に現在のベルギー領内にあるトゥルネで発見されたクローヴィス1世の父キルデリク1世の墓の副葬品であり、すでにフランク族の美術がゲルマン美術とローマの双方から影響を受けていることを示している。この副葬品のうち、当時のフランク族の芸術動向を示す代表作と言えるのが、キルデリク1世の儀式用短剣の装飾金具であり、クロワゾネと呼ばれる象嵌細工で飾られ、当時の高い技術を示している。また、サン=ドニ大聖堂の敷地で発見されたクロタール1世王妃アルネグンダ(英語版)(アレグンデ)の墓でもベルトの飾り金具、ピン、円形ブローチなどの金工品が発見されている。これらの作品はメロヴィング朝初期の美術様式の発展を知るうえで、制作年代が確かな基準作として重要視されている。 キリスト教の拡大と普及はこうした金属工芸にも影響を及ぼした。アレマンネンで発見された7世紀後半の裕福な女性の墓で発見されたフィブラは、クロワゾネ技法で金メッキされた銀で作成されており、その銘にはキリスト教のインスピレーションが見られる。キリスト教の礼拝は多数の典礼用具の制作を要求した。そのための技術と霊感の源は世俗的な物品にも影響を与えずにはおかなかった。王の納戸役(宝物管理人)であり金銀細工師であった聖エリギウス(英語版)は、サン=ドニ修道院のための十字架のほか、メロヴィング家の王のための玉座や奢侈品を作っていた。
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金属工芸
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ウィキメディア・コモンズには、イスラームの金属工芸に関連するカテゴリがあります。 詳細は「 イスラームの金属工芸(フランス語版)」を参照 金属工芸の素材としては青銅や真鍮が最もよく使用され、その他金銀鉄などの使用も見られるが、金銀はしばしば熔かして再利用され、またアッバース朝以降ではシャリーア(イスラーム法)を基に本格的に禁止されたため現存する作品は少ない。 水差し、鉢、杯、インク壺、箱、鏡、シャンデリア、燭台、武具など多岐にわたり、その技法も製作物に応じて多種存在していた。基本的にはサーサーン朝ペルシアやビザンチンといったイスラーム以前から存在していた伝統を継承し、発展させた工芸美術である。ファーティマ朝時代のエジプトなどでは鳥獣をかたどった水差しが流行し、数多く製作されている。セルジューク朝時代には装飾として刻まれたアラビア文字の末端に人間の頭部や花の紋様など変化をつけた作品も出現し始め、社会情勢の変化がうかがえる。他の地域ではあまり発達しなかった技法に、12世紀ごろから見られるようになった銅や銀を真鍮の器に嵌め込む象嵌細工があり、1163年にヘラートで制作されたボブリンスキーの手桶が代表的である。象嵌技法はその後シリアに伝えられ、14世紀初頭にエジプトで聖ルイ王の洗礼盤(フランス語版)などの作品が生まれた。しかしそれ以降は理由は不明であるが人物や動物を描いた象嵌装飾は下火となり、15世紀末には単純な打出しや線刻が主流となり金工は衰退を迎えた。 特徴ある金属工芸としては17世紀ムガル帝国のビードリー器(英語版)がある。これは卑金属の合金に金銀を象嵌し、アンモニア塩を含む泥で覆うことで艶消しの黒を得て象嵌を引き立たせるものであり、特に大麻や煙草の吸引用フーカの基部が多く作られた。 アッ=サッファールのアストロラーベ(天体観測儀)。中世イスラームでは天文学が大きく発展していた。直径24.2cm。1067年、アンダルスのウマイヤ朝。スペイン国立考古学博物館蔵 鳥を象った真鍮の水差し。11-12世紀、イラン。スペイン国立考古学博物館蔵 セルジューク朝の真鍮製水差し。打出し加工され、銀とビスマスの象嵌がある。1180-1210年頃。メトロポリタン美術館蔵 ビードリー器の水パイプの基部。17世紀末-18世紀初頭、インド・ビーダル地方。ルーヴル美術館蔵
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